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連載「バレエ・リュスと日本人たち」 Ballets Russes et les japonais
第3回ベルリンの青春 [1]
沼辺 信一

31/July/2009

1910(明治四三)年3月、ベルリンに到着した山田耕筰(1886~1965)は、早速ベルリン王立音楽院の作曲科に入学を果たし、翌4月から3年間かけて和声法、対位法、音楽形式、管弦楽法など、西洋古典音楽の正統的な作曲技法の修得に努めた。日本の近代音楽は当時まだ揺籃期にあり、とりわけ作曲に関してはようやく端緒についたばかりの未熟な段階だった。山田の母校である東京音楽学校には作曲科すら開設されていなかったのである。彼に先立つこと9年、1901(明治三四)年にライプツィヒの音楽院に留学した先輩の瀧廉太郎は、わずか2か月在籍しただけで病を得て帰国の憂き目をみている。作曲家を志した時点で、山田は文字どおり前人未到の困難きわまる隘路を独力で切り拓くことをあらかじめ運命づけられていた。
山田が留学して間もない1910年5月、ディアギレフのバレエ・リュスはドイツを初めて訪れ、ベルリン公演を敢行した(5月21~28日/シャルロッテンブルク、ヴェステン劇場)。【註1】わずか一週間の旅興行ながら、『クレオパトラ』『レ・シルフィード』『ポロヴェツ人の踊り』などの定番レパートリーに加えて、新作『謝肉祭』(シューマンのピアノ曲のバレエ化/フォーキン振付、ニジンスキー出演)がこのとき世界初演されたのだが、時ならぬ異国のバレエ団の来訪はおそらく山田の眼中にはなかっただろう。ちょうどその頃、ドイツ語をほとんど解さぬままに音楽院の受講を始めた彼は、「語学の練習や学校の課題に、寸暇もないまでに追ひ悩まされ続けてゐたため」、故国への手紙すら書けない状況で「猛烈な神経衰弱に蝕まれて」いたからである。【註2】
1912年に入るとほどなく、バレエ・リュス二度目のベルリン公演が実現する(1月8日~2月12日/ヴェステン劇場)。このたびの公演期間はたっぷり1か月あり、前回の興行時に絶賛を博した『謝肉祭』再演のほか、『アルミードの館』『シェエラザード』『薔薇の精』などニジンスキー主演物をずらりと並べたプログラムは豪勢そのものだが、周到なディアギレフはストラヴィンスキー作品をあえて演目に加えなかった。すでにパリで喝采を博している『火の鳥』(1910年6月初演)も『ペトルーシュカ』(1911年6月初演)も、ベルリンの観衆の支持を得るには時期尚早と考えたのか、それとも現地のオーケストラが「現代音楽」を奏するには力不足だったためか、おそらくその両方の理由から、これら二つのバレエのお披露目は同年暮れに予定される第三回公演まで先延ばしされた。
山田は母校の学友会の月刊同人誌『音楽』にしばしばベルリン通信を寄せており、それらから留学先での動向が断続的ながら窺い知れるのだが、彼は音楽院でのアカデミックな学習と並行して数多くの演奏会とオペラに足を運んで実地の音楽体験を深めていた。とりわけアルトゥール・ニキシュ率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会では巨匠の指揮ぶりに感服し、独奏者として登場したヴァイオリンのミッシャ・エルマンやエフレム・ジンバリスト、コントラバスのセルゲイ・クーセヴィツキーといった名手たちの至芸にも触れている。王立宮廷歌劇場(リンデンオーパー)では、18世紀のグルック、モーツァルトから同時代のフンパーディンク(当時のベルリン王立音楽院の院長)に至る古今のレパートリーをつぶさに(ただし学生の身分ゆえ、もっぱら天井桟敷から)実見し、ワーグナーの楽劇「指環」四部作もすべてここで観ている。【註3】しかしながら、掲載された寄稿文にみる限り、1912年初頭のバレエ・リュス第二回ベルリン巡業に山田が関心を示した形跡は認められない。貪欲きわまりない受容者だった彼も、さすがにバレエ公演にまでは手が回らなかったのであろう。
ベルリンの音楽院で作曲家への道を歩み始めた山田耕筰にとって、バッハからブラームスまでのドイツ古典音楽に学びながら、伝統的な和声法と対位法、カノン、フーガ、変奏曲、ソナタなどの基礎的な音楽形式を習得し、大規模な交響曲やオペラの作曲に必要不可欠な管弦楽法に通暁することは、どうにも遁れられない至上命令だった。この気の遠くなりそうな険しい行程を、山田は1910年夏から12年春までのわずか2年間で踏破している。1912年3月に完成した最初の管弦楽曲「序曲 ニ長調」や、続いて着手された卒業作品「交響曲 ヘ長調(かちどきと平和)」は、シューベルトやメンデルスゾーンの後継者の作かと見紛うほどの手堅い完成度を示す。
しかしながら、アカデミックな教育は彼が作曲家として立つための前提ではあるものの、創作者として飛躍するには不十分で、むしろ弊害すらもたらす。その意味で、日々の厳しい修練のすぐ傍らに、刺激的な音楽都市ベルリンが常に存在していたことは、20世紀初頭を「現代」として生きつつある二十代半ばの山田にとって、願ってもない好条件だったといえよう。彼は学校では学ぶことのできない同時代のレッスンを、この大都会の音楽環境そのものから受容したのである。後藤暢子氏の評言を借りるなら、山田はこのとき「保守と前衛の芸術活動が渦巻くベルリンで、音楽院の内は古典、外は現代とも言える二重構造」【註4】のただなかに身を置いていた。

ベルリンの山田耕筰(1912年) 婚約者のテア・シュミットと
出典=山田耕筰『若き日の狂詩曲』

私の愛敬の念は日を追うごとに高められた
ベルリンでの山田耕筰にとって、音楽の「現代」とは一人の生身の人物によって体現されていた。リヒャルト・シュトラウスである。
留学してほぼ半年後の1910年10月17日、山田はベルリンのクロル歌劇場(クロルオーパー/新王立歌劇場)でシュトラウスの楽劇『サロメ』を作曲家自らが指揮する場面に遭遇する。【註5】1905年ドレスデンでの世界初演からわずか5年後にめぐりあった、山田にとってこれが最初の「同時代音楽」体験だった。すでにシュトラウスの評判をあちこちで耳にしていた山田は、前もってこの楽劇のドイツ語台本に苦労して目を通したあとオスカー・ワイルドの戯曲の英訳を入手して熟読、楽劇のピアノ・スコアまで買い求めて予習したうえで満を持して観劇に臨んだという。【註6】
当夜はたまたま知遇を得ていた在ベルリン日本大使館付の海軍武官の招待により、「学生としては分に過ぎた、立派な席に坐つて」一階平土間の8列目あたりで鑑賞できたため、「オーケストラ ボックスのちやうどまん中に立つたまゝ、指揮する」シュトラウスの後ろ姿を、至近距離から仔細に眺めることができた。山田の感激は大きく、強烈な表現力をもつ音楽に触れて、「それまで随喜してゐたヴァーナーには、何かもの足りぬ所のあるのを気づくやうに」なったと記している。その一週間ほどのち、シュトラウスは王立宮廷歌劇場管弦楽団を指揮してベートーヴェンの第四交響曲と自作の「家庭交響曲」を演奏した。このマチネー公演にも出かけた山田は、「モダーニストの彼が、古典的なベートーヴェの演奏において、非常にすぐれた解釈を示し」、楽団員に対して「ちやうど大鵬がその雛を大きい翼の下にかばうやうな態度で、威厳のある動作の中に、強い愛をたへ【ママ】ながら指揮棒をふる」その姿にまたもや讃嘆の思いを抱いた。
こうして「シトラウに対する私の愛敬の念は、日を追ふごとに益々高められ」、彼が指揮する機会があれば山田は「一回も欠かさず熱心に参聴」し、『エレクトラ』『薔薇の騎士』『ナクソス島のアリアドネ』などの舞台上演にも足を運んだという。シュトラウスは作曲家志望の留学生にとっての「偶像」、すなわち私淑と崇敬の対象と化したのである。
ところで、これは当時の山田耕筰の全く与り知らぬことなのだが、ちょうど同じ頃、ディアギレフは密かにシュトラウスとその台本作者であるフーゴー・フォン・ホフマンスタールに接触を図り、近い将来ニジンスキーのために新作バレエを書いてもらえるよう水面下で交渉を開始していた。【註7】既存のドイツ音楽のバレエ化(シューマンによる『謝肉祭』はその一例)だけでは満足せず、当代随一の大家に新作を委嘱しようと欲したところに、ディアギレフの飽くことを知らぬ野心と先取性とが如実にうかがえよう(並行して彼はドビュッシーにも新作の作曲を依頼していた)。

ベルリンで『牧神の午後』リハーサル中のニジンスキーとバレエ・リュス(1912年12月)
出典="The Tatler" 1913年1月1日号

ニジンスキーにもカルサーヴィナにも息を奪われた
こうして1912年11月がやってくる。春先から取り組んでいた音楽院の卒業作品、すなわち二管編成の「交響曲 ヘ長調」とメーリケの詩による管弦楽付き合唱曲「秋の宴」の作曲もようやくほぼ仕上がり、10月中旬からライン地方(ホンブルク、フランクフルト、ヴィースバーデン、ボン、ケルン、デュッセルドルフ)を旅した山田耕筰は、重圧から解き放たれた安堵感と、将来への夢と不安のないまぜになった複雑な気分を抱きながらベルリンへと帰還したことであろう。
その彼を待ち受けていたのはバレエ・リュス三度目のベルリン来訪の知らせであった。今回は同年初めの公演では棚上げにされたストラヴィンスキーの『火の鳥』『ペトルーシュカ』の二作がいよいよ取り上げられるほか、同年5月29日パリのシャトレ座で世界初演されて賛否両論のスキャンダルを巻き起こしたばかりの問題作『牧神の午後』(ドビュッシー作曲/ニジンスキー振付・主演)がドイツ初演されると報じられた。公演期日は11月21日から12月20日までの1か月間が予定されている。
このベルリン公演に賭けるディアギレフの意気込みには前回を上回るものがあり、当時は至難とされたストラヴィンスキーの音楽を満足のいくレヴェルで聴かせるべく、わざわざロンドンからビーチャム交響楽団をまるごと招聘して演奏にあたらせるという力の入れようだった。この楽団は指揮者トマス・ビーチャムが1909年に創設した歴史の浅いオーケストラなのだが、1911年と12年のバレエ・リュスのロンドン公演でピットに入った経験から、ストラヴィンスキーを含む全演目にすでに通暁していたのである。【註8】
過去の二度の来訪時になんの反応も示さなかったとおぼしい山田も、さすがに今回ばかりはバレエ・リュスに並々ならぬ関心を示し、乏しい懐具合にもかかわらず「ラシアン バレーの興行の通し切符を買つた」。【註9】こうした態度の変化がどこに起因するかは定かでないが、演目に同時代音楽の旗手であるドビュッシーとストラヴィンスキーの楽曲が含まれている点が彼の好奇心を大いにそそったことは容易に推察できるだろう。苦しい修練に耐えてようやく卒業作品を仕上げた自分自身への褒賞という意味合いもあったかもしれない。さらに附言するなら、山田の周辺でバレエ・リュスの素晴らしさを吹聴した人物がいた可能性も見逃せないのであるが、この問題については本連載の次回以降で再び触れることになろう。

ベルリン留学時代を四十年近く経ってから記した自叙伝『若き日の狂詩曲』(1951年、講談社)で、山田耕筰は1912年末のバレエ・リュス公演を次のように回想している。【註10】

その年のベリンはロシャン・バレェでも賑はつた。その公演はどうした訳か、ティァガテンといふ公園にある、王立歌劇場で行はれた。
ニジンキィにもカサヴィイナにも息を奪はれた。バァクストのデコォルにも眼を奪はれた。が、はじめて耳にし得たドビュッスィの『牧神の午後』や、ストラヴィンキィの作品に触れ得た喜は大変なものだつた。

この一節での山田の記憶は明晰である。確かにこの第三回のバレエ・リュス公演の開催場所は、ベルリン都心部の公園ティーアガルテンの一郭に帝国議会と対峙して建つ新王立歌劇場(クロルオーパー/現存せず)だった。奇しくもそこは2年前の10月、山田が初めてリヒャルト・シュトラウスの楽劇『サロメ』を作曲者の指揮で観劇した思い出の場所でもあったから、山田はおそらくそのときの感激を反芻しつつ劇場に足を運んだことであろう。
彼はこのバレエ・リュス公演で「はじめて耳にし得た」音楽として、ドビュッシーの『牧神の午後』とともに「ストラヴィンキィの作品」にも言及している。残念ながら曲名は記されないが、後述するように、このとき山田が観たストラヴィンスキーのバレエが『火の鳥』だったことはほぼ確実である(ベルリンで初演されたもう一作の『ペトルーシュカ』を観たという証拠はない)。彼にとってのバレエ・リュス体験は何よりも「同時代音楽」との遭遇の場だったのである。
山田の自叙伝は青春時代を率直な筆致で生き生きと回顧した好著であるが、なにぶん六十代半ばになって記憶のみを頼りに綴った内容なので、曖昧な年代記述や人名や事実関係の誤りが散見される。引用箇所でもすぐそれに続く文中で、ベルリンの留学仲間で親友の斎藤佳三(さいとう・かぞう/後述)がこのとき一緒だったとし、休憩時間での二人の会話を引いて、

『芸術家に固定は死だ。常に新しいものを追はなければ……』
幕合ひに、斎藤はそんな事を独語してた。私は彼の肩をたたいて、
『だから、……今宵もまたお伴致すとしようか』
と揶揄したら、彼はふくれて横を向いてしまつた。

と意味深長な記述が続くのだが、斎藤のベルリン到着はバレエ・リュス公演終了一週間後の1912年12月28日であり、このエピソードは全くのフィクションであるか、別の日の記憶が入り混じってしまったことが明らかである。
そのあと山田はさりげなくこう続ける。

観客席にゐたリヒァルトシトラゥが、トォマス・ビィチャの指揮にじいつと見入つてゐたのも、音楽学生としての私には印象的だつた。

客席にリヒャルト・シュトラウスがいたというのである。

(続く)

【註】
1. バレエ・リュスのベルリン公演の詳細に関しては以下の研究書を参照した。
Claudia Jeschke, Ursel Berger, Birgit Zeidler [ed.], Spiegelungen: Die Ballets Russes und die Künste, Verlag Vorwerk 8, Berlin, 1997, pp.247-48.
2. 山田耕作「リルト シトラウの印象」『詩と音楽』2巻3号、1923(大正一二)年3月、68頁。
3. 山田耕作「伯林楽会のくさぐさ」『音楽』2巻7号、1911(明治四四)年7月、18~20頁。この時点(1911年5月)で山田が観たと記すオペラを列記しておく。グルック『オルフェウスとエウリュディケ』『アウリスのイフィゲネイア』、モーツァルト『魔笛』、ベートーヴェン『フィデリオ』、ワーグナー『ローエングリン』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』「ニーベルングの指環」四部作、トマ『ミニョン』、フンパーディンク『王子と王女』、シュトラウス『サロメ』。
4. 後藤暢子「シュトラウスと日本の楽壇」、日本リヒャルト・シュトラウス協会(編)『リヒャルト・シュトラウスの「実像」』音楽之友社、2000(平成一二)年、229頁。
5. 『サロメ』上演の日付と劇場名の同定は後藤暢子氏の調査に拠った。
6. 山田耕作「リルト シトラウの印象」69頁。以下のいくつかの山田の証言も同じ記事から引用した。
7. リチャード・バックル『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代』上、鈴木晶訳、リブロポート、1983(昭和五八)年、251~52、276~77頁。
8. ビーチャム交響楽団(The Beecham Symphony Orchestra)の1912年末のベルリン公演への参加に関しては以下のトマス・ビーチャム評伝に詳しい。
Charles Reid, Thomas Beecham: An Independent Biography, Victor Gollancz, London, 1962, pp.121 ff.
9. 山田耕作「リルト シトラウの印象」73頁。
10. 山田耕筰『若き日の狂詩曲』講談社、1951(昭和二六)年、224~25頁。
山田は第二次大戦で青年時代の多くの資料を焼失し、1948(昭和二三)年に脳溢血で半身不随となった状況下で執筆した。「従つて本書の記述は凡て私の記憶に拠る。自ら時日等の点に多少の思ひ違ひもあらう」(序より)。本書は『自伝 はるかなり青春のしらべ』(長嶋書房、1957年)として再刊されたのち、元の題名に戻されて中公文庫にも収められた(1996年)。現行版は『山田耕筰著作全集』3(岩波書店、2001年)所収。

追記) 山田耕筰は1930(昭和五)年までは山田耕作と名乗っていた。したがって本稿が扱う時代ではそう表記するのが正しいのだが、慣例に従い本文中では「耕筰」で統一した。また、引用した山田の著述中では「シトラウ」「」のように、子音を小さく記す独自のやり方で固有名詞が表記されることも申し添えておく。