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連載「バレエ・リュスと日本人たち」 Ballets Russes et les japonais
第7回 ベルリンの青春[5]
沼辺 信一

12/December/2009

1912年12月、バレエ・リュスのベルリン公演に通いつめて、ニジンスキーの妙技に酔いしれ、ドビュッシーやストラヴィンスキーの同時代音楽やバクストの舞台装置に衝撃を受けた山田耕筰は、劇場内外の至るところでアンナ・パヴロワ率いるバレエ団の来訪を告げるポスターを目にしたはずである。公演会場はほかならぬそのクロル歌劇場、しかも幕開けはバレエ・リュスの終演からわずか五日後の12月25日なのだという。これを観逃すわけにはいくまい。
その当時、山田を取り巻く状況は大きく変化しつつあった。王立音楽院での二年半にわたる厳しい修練に耐え、晴れて11月に卒業作品を仕上げた彼は、困難を乗り越えた安堵と達成感とともに、自らの才能に対する疑念や将来への不安を抱えながら、創作者として進むべき方向を模索していた。勤勉な学業のみでは作曲家として大成できない。卒業を目前に26歳の山田は大きな転機に直面した。【註44】残された留学期間、さまざまな芸術動向が渦巻く「目の前の」ベルリンから何をどう摂取するか。バレエ・リュスの舞台に耳目を奪われながら、客席で遭遇したリヒャルト・シュトラウスの反応をしきりに気にかけ、挙句の果ては終演後ストーカーさながらにその跡を追ったのも、岐路に差しかかった青年ならではの孤独な焦燥感の表れだったのかもしれない。


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ベルリン留学途上の伊藤道郎(左)と斎藤佳三(1912年暮)
出典:ヘレン・コールドウェル『伊藤道郎 人と芸術』

芸術家となる真の生活の第一歩を踏み出した
そうした折も折、芸術を志す二人の日本人が遠路はるばる山田の前に姿を現す。斎藤佳三(さいとう・かぞう)と伊藤道郎(いとう・みちお)である。
斎藤佳三は山田の一歳下の25歳。東京音楽学校師範科に二年間在籍したのち、改めて東京美術学校図案科に入学したという異色の経歴の持ち主である。美校に転じてからも音校時代の一年先輩である山田との交友は続き、実業家・岩崎小弥太からの資金援助によるドイツ留学をためらう山田に対し、斎藤は「さういふことに一富豪が金を出すといふこと自体、驚くべき社会的な進歩ぢやないか」【註45】と諭して決断させたという。彼は家具調度やテキスタイルの意匠デザインを手がける傍ら、広く美術全般に旺盛な関心を抱き、作曲や詩作にも手を染める才人であり、山田の相談相手として誰よりも似つかわしい存在だったはずだ。
美校の卒業制作を早々と提出した斎藤は11月6日、日本郵船の伊予丸で横浜港から慌しくドイツへと旅立った。【註46】卒業式を待たずに留学とはいかにも気ぜわしい行動であるが、おそらく彼は親友がベルリンに留まっているうちに少しでも多くの芸術体験を共有しようと企んだのだろう。ベルリン到着は12月28日。そのままシャルロッテンブルク区の山田の下宿に同居し、ほぼ一年にわたって行動を共にすることになる。
山田は自叙伝のなかで、斎藤とのベルリン生活を次のように回顧する。【註47】

[……] 私を追つて来た斎藤の出現は然し、私を昼から夜のやうに変へた。[……]
彼はまづ私に詩を吹き込み、文学を教へ、絵画への眼を開けてくれた。彼との同室の生活は思考の生活となり、論談の生活となつた。
それまでの私は、ただひたむきに、語学の吸収と、音楽の摂取に沈潜してゐた一学生に過ぎなかつた。ただ『知』の世界を、無邪気に行進する若人 [わかうど] でしかなかつた。陽の光でのみ成長してゐたのである。彼によつて私には『夜』が齎された。生活の一切に反省が促され、闇の光も見えそめて来た。哲学 [フイロゾフイレン] する世界に呼吸する歓びを知る事ができるやうにもなつた。
言ひ換へれば、芸術家となる真の生活の第一歩を蹈み出したのである。

*[ ]内は引用文中のルビ。

こうして好奇心旺盛な二人の青年による大都会ベルリンの探索が開始される。同じ自叙伝のなかで、山田はバレエ・リュス観劇の折も斎藤と一緒だったと誤って記したあと、休憩時間に二人の間で交わされたという会話、

『芸術家に固定は死だ。常に新しいものを追はなければ……』
幕合ひに、斎藤はそんな事を独語してた。私は彼の肩をたたいて、
『だから、……今宵もまたお伴致すとしようか』
と揶揄したら、彼はふくれて横を向いてしまつた。

を挿入している。すでに述べたようにバレエ・リュス公演は斎藤のベルリン到着の八日前に終了しているので、この部分の回想そのものは信ずるに足らないのだが、両者の間で「常に新しいものを追はなければ」という了解がなされていたことを示唆する点で忘れがたい一節である。
一年間に及ぶ大都会ベルリンで共有された豊穣な芸術体験は、帰国後の二人が協働した1915(大正四)年の日本楽劇協会の旗揚げ公演や、翌16(大正五)年の劇団「新劇場」公演において結実をみる(「新劇場」については回を改めて紹介しよう)。さらに、本連載の趣旨からは外れるので詳述しないが、両者はベルリンの現代美術の拠点「シュトゥルム画廊」にも日参し、帰国に際しその主宰者ヘルヴァルト・ヴァルデンから多数の現代版画を託された。斎藤と山田が1914(大正三)年3月に東京・日比谷で開催した「シトゥルム木版画展覧会」は、わが国へのドイツ表現主義美術の本格的な紹介の嚆矢と位置づけられている。【註48】
斎藤佳三と同じく伊予丸に乗船し、そのままマルセイユ経由で陸路ベルリンまで同道した伊藤道郎は、このときまだ19歳である。声楽家を夢見て、東京音楽学校教授のヴェルクマイスターとユンケル(ともに山田耕筰の恩師でもある)、音校を辞したばかりの柴田環(のちの三浦環)を家庭教師に迎えて音校受験に備えていたが、やがて本場のオペラを学ぶ必要に駆られドイツ留学を志した。【註49】
外遊を目前に控えたこの時期、伊藤は幼馴染の村田実、岸田辰弥らが結成した演劇研究集団「とりで社」にも参画している。「とりで社」はヨーロッパの同時代演劇に憧れ、エドワード・ゴードン・クレイグの演劇理論、マーテルランクやバーナード・ショーの戯曲、ドビュッシーの音楽などに注目、試演会と同人誌の刊行を通じ、手探りながらそれらの紹介に努めていた。いち早く演劇を「総合芸術」として捉え、バレエ・リュスの動向にも関心を寄せていた「とりで社」の先駆性についてはいずれ稿を改めて詳述するが、留学直前の伊藤がその仲間から多くの刺激と新知識を得ていたことは疑いなかろう。
山田耕筰の前に登場した伊藤は、後年の山田の言によれば「秀麗な眉目に添うるに十指すべてこれ指環というような、とてもオシャレの青年だつた」【註50】というが、その芸術的才能については未知数というほかなく、音楽と演劇にうつつを抜かす道楽息子の域を出ていなかった。後年イギリスとアメリカで開花することになる舞踊家としての資質はまだ片鱗すら窺えなかったはずだ。伊藤はこのあと1913年6月ライプツィヒに転居するまでの約半年をベルリンで過ごし、山田を頼もしい指南役と仰ぎながら音楽会とオペラに足繁く通うことになる。

 


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(左)「アンナ・パヴロワ客演興行 1912/13」プログラム表紙(斎藤佳三旧蔵)
出典:『新演芸』1916(大正五)年4月号
(右)『コロンビーナの媚態』の一場面(1912年)
左からノヴィコフ、パヴロワ、ザイリッチ
出典:Keith Money, Anna Pavlova: Her Life and Art

パヴロワはただ夢中で見てしまいました
こうして山田耕筰の身辺がにわかに賑わいを増したまさにその時期に、パヴロワにとって三度目となるベルリン公演 "Gastspiel Anna Pawlowa(アンナ・パヴロワ客演興行)" が開始された。三人の日本人はそれぞれに興味深いその鑑賞記録を書き残しているのだが、それらの検討に入る前に、パヴロワがこの時点までに歩んできた舞踊家としての道のりを手短にたどっておこう。

アンナ・パヴロワはニジンスキーと同じく、ペテルブルグのマリインスキー劇場のバレエ団で研鑽を積み、やがて欧米へと活躍の場を広げたバレリーナである。マリインスキー劇場では、マリウス・ペチパ(プティパ)が確立した古典バレエに反撥する若手ダンサー兼振付家ミハイル・フォーキンの感化を受け、1905年にはフォーキンとともにバレエ団改革運動の先鋒の一人となった。フォーキンの振付作品の多くに携わり、1907年『アルミードの館』初演でニジンスキーの相手役を務め、珠玉の小品『白鳥(瀕死の白鳥)』で絶妙なソロを披露したのち、08年の新作『エジプトの夜』でもフォーキンと共演している。
国外進出という点で、パヴロワはディアギレフに一歩先んじていた。バレエ・リュスの西欧デビューよりも一年早く、彼女は1908年春アドルフ・ボリム(ボルム)らと初の北欧・ドイツ巡業を敢行し、5月にはベルリンでクロル歌劇場の初舞台も踏んでいる。翌09年5月にもベルリンとウィーンに巡演するが、皮肉にもそのため歴史的なバレエ・リュス第一回パリ公演への合流が遅れ、プリマとしての栄誉を後輩タマーラ・カルサーヴィナに奪われる形となった。その後はマリインスキー劇場に籍を置きながらロンドンのミュージック・ホール「パレス座」を拠点にミハイル・モルドキンをパートナーとする小編成のバレエ団を設立し、1910年には二度にわたるアメリカ巡業、さらにイギリス国内ツアーを成功させ、欧米全土での名声を不動のものとした。【註51】
西欧を根城に活動するアンナ・パヴロワのバレエ団は、この時点でバレエ・リュスにとって唯一のライヴァルだった。両者は必ずしも敵対的な関係になく、ディアギレフは時にパヴロワをゲストとして招いてもいるのだが、双方が思い描くバレエ像には大きな隔たりがあった。ディアギレフがフォーキンとともに打ち出した「総合芸術」の理念は、ダンサーの個人技とアンサンブルを重視するパヴロワには容易に共鳴しがたく、ストラヴィンスキーの音楽は彼女の理解を超えていた。かつてフォーキンと行動を共にしたにもかかわらず、パヴロワはあくまでも優美と繊細を旨とする19世紀バレエの信奉者であり、ディアギレフの眼には旧弊な保守主義者と映じたことだろう。
パヴロワにとって今回のベルリン公演は、これまでの二度の来訪とはいささか趣を異にしていた。数日前までニジンスキーが喝采を浴びていた同じ劇場で公演するとなれば、観衆の間でバレエ・リュスとの優劣が取り沙汰されるのは必至であり、自らのバレエ団が見劣りするという評判だけは避けねばならない。実はそのための対策はすでに講じられていた。振付家フォーキンの招聘である。
バレエ・リュス創設以来の専属振付家として、『シェエラザード』『火の鳥』『ペトルーシュカ』など多くの話題作を送り出したフォーキンだが、1912年初夏に新作『ダフニスとクロエ』上演をめぐって深刻な諍いが生じ、『牧神の午後』初演でニジンスキーを振付家として擁立するディアギレフと決裂、バレエ・リュス退団を余儀なくされた(連載第1回を参照)。機を見るに敏なパヴロワはこのチャンスを逃さなかった。すかさずマリインスキー以来の旧友と接触し、同年末からのベルリン巡業への参加を要請したのである。プライドを傷つけられペテルブルグに戻っていたフォーキンは渡りに舟とばかりに快諾し、二つの新作バレエを提案するとともに、数人のダンサーを引き連れてベルリンのパヴロワ一座に合流した。先行するバレエ・リュス公演への対抗手段として、フォーキンの助力に勝る妙案はないとパヴロワは考えていた。一方、フォーキンの行動にもディアギレフに対する意趣返しという動機が潜んでいたことは否定できない。

1912年のクリスマスに幕開けしたその「アンナ・パヴロワ客演興行」に、三人の日本人のなかで最も早く足を運んだのは、残された記録からみる限り、意外なことに伊藤道郎だったらしい。
1913年5月ベルリンの伊藤から東京の「とりで社」の村田実に宛てて投函された私信が(本人には無断のまま)7月刊の同人誌『とりで』に掲載されている。そこではまず、当地では音楽会が「一月、二月、三月には毎晩の様に御座いました」と音楽三昧の近況が述べられたあと、次のような注目すべき報告がなされている。【註52】

独創的の舞踊は、是非日本でも起してもらいたい。ダンカンも、ニジンスキーは見ぬが同じ露国のパブロバーを見た。パブロバーは私が伯林に来た日に見たので、唯夢中で見てしまいました。来冬は是非よく見たいと思ふ。

「ダンカンも、ニジンスキーは見ぬが同じ露国のパブロバーを見た」とある一節がことのほか重要だが、いささか文意が通じにくい。「ダンカンとニジンスキーはまだ観ていないが、パヴロワは観た」ともとれるのだが、後述するように伊藤はこの時点ですでにイザドラ・ダンカンの舞台を体験しているので、ここは「ダンカンもパヴロワも観たが、ニジンスキーは観逃した」の意に解すべきであろう。いずれにせよ、「とりで社」同人の間ではこれら三人のダンサーの名がなんの説明もなしに、いわば周知の人物として呼び慣わされている点は注目に値する。
伊藤の記述をそのまま信ずるならば、彼がパヴロワの舞台を観たのは「私が伯林に来た日」、すなわち1912年12月28日当日ということになるが、斎藤と伊藤の二人はこの日の夜ベルリンに到着したことが記録から判明しているので、その晩のうちの観劇とは考えられず、観に出かけたのは翌29日のことだったのだろう。この日は日曜日にあたっているのでマチネー興行だったかもしれない。
異郷にたどりついてまだ右も左もわからない状態で、伊藤が単身バレエ鑑賞に赴く姿もまた想像しにくい。察するに彼は身近な誰かの強い奨めにより、おそらくはその人物に伴われてクロル劇場まで出向いたと思われるのだが、同行者がはたして山田耕筰だったのか否かは判断する手がかりがない。
幸いなことに、伊藤は村田に宛てたその私信のなかで、手許にある公演プログラムから、部分的ながら当日の演目をドイツ語原文のまま書き写している。【註53】ここにその日本語訳を掲げておこう。

アンナ・パヴロワ客演興行《プログラム》
歌劇『スザンナの秘密』序曲(ヴォルフ=フェッラーリ作曲)

マズルカ(グリンカ作曲)
チャールダーシュ(グロッスマン作曲)*出演/ガシェフスカ、シュワロフ
東洋の踊り(ルビンシュテイン作曲)
パ・ド・トロワ(ドリーゴ作曲)*出演/パヴロワ、ノヴィコフ、シリャーエフ

ここまで転記したところで便箋の余白が尽きたのか、あるいは未知の固有名詞の羅列は無意味だと悟ったのか、伊藤は「まだ沢山あるがそれでは、よく解らぬでしようから後から送ります」とそのまま手紙を締め括ってしまった。当日のプログラムは全体で四部もしくは三部で構成されていたとおぼしいのだが、伊藤が書き留めたのはおそらくそのなかの「第一部」に該当する演目であろう。
いかにも断片的な記載ながら、それでも伊藤の報告はいくつかの有益な情報を含んでいる。まず、今回のパヴロワのベルリン公演では直前のバレエ・リュス公演と同様、ピットにそれなりの規模のオーケストラが入って、開幕前から本格的な管弦楽曲を奏したことがわかる(ヴォルフ=フェッラーリの歌劇序曲)。それに続く「第一部」ではポーランド、ハンガリー、中近東(?)と地方色に富んだダンスをさまざまに取り合わせた「ディヴェルティスマン」が華やかに展開され、四つ目の「パ・ド・トロワ」で初めてパヴロワ自身が登場している。
用いられた楽曲については不明な点が多いが、グリンカの「マズルカ」とはおそらく歌劇『皇帝に捧げし命』第二幕で踊られる同名の舞曲かと思われる。ディアギレフのバレエ・リュス第一回パリ公演初日(1909年5月19日)に初演されたロシア音楽のディヴェルティスマン『饗宴』にも同じ「マズルカ」が組み込まれている【註54】ところから、これはもともとマリインスキー劇場のレパートリーにあった演目だと察せられる。「チャールダーシュ」の作者ルドヴィク・グロッスマン(1835~1915)は今ではほとんど忘れられたポーランドの作曲家で、ワルシャワを拠点に活躍した人物のようだ。アントン・ルビンシュテイン(1829~1894)はペテルブルグ音楽院を創設した高名な作曲家。多くの歌劇とピアノ曲を遺したが、「東洋の踊り」については不詳。最後のリッカルド・ドリーゴ(1846~1930)作曲「パ・ド・トロワ」とは、当時パヴロワのバレエ団が旅興行で繰り返し上演していた『コロンビーナの媚態 Les Coquetteries de Columbine』を指すものと考えられる(振付:ニコライ&セルゲイ・レガート兄弟)。コメディア・デラルテの道化三人によって踊られる艶っぽい小品である。写真でみる限り、バレエ・リュスが上演した『謝肉祭(カルナヴァル)』と同工異曲の舞台だったようだ。
ここまでの演目をざっと通覧しただけでも、バレエ音楽に対するパヴロワのセンスの古めかしさが露呈している。19世紀の穏健で感傷的なロマン主義に安住して、ワーグナー以降の近代音楽を顧みない保守的な姿勢は、これら「第一部」の選曲からも明らかであろう。これはペチパが君臨した時代にマリインスキー劇場で培われた感受性そのものであり(ドリーゴは長くその音楽監督の地位にあった)、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキーら新世代の同時代音楽によるバレエが競って舞台にかけられたディアギレフのバレエ・リュスとは全く次元を異にしていたと評されよう。パヴロワのこうした音楽観は終生変わることがなく、ちょうど十年後の1922(大正一一)年秋に彼女のバレエ団が日本公演を行った際の「舞踊小品目録」にも、依然として「グリンカ作曲 マヅルカ」「グロツスマン作曲 ツアルダヅ(勾牙利舞踊)」の二作が挙げられているのである。【註55】
「第一部」に登場したダンサーについても附言しておこう。「パ・ド・トロワ」でパヴロワと共演したノヴィコフ(Laurent Novikoff 1888~1956)は、モスクワのボリショイ劇場で活躍後、ディアギレフのバレエ・リュスを経て1911年パヴロワのバレエ団に加わり、モルドキンの後任として彼女のパートナーを務めた。第一次大戦後に再度バレエ・リュスに加わったのち渡米し、シカゴのリリック・オペラ、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で舞踊監督(バレー・マスター)を長く務めた。もう一人のシリャーエフ(Aleksandr Shiryaev 1867~1941)はバレエ『エスメラルダ』『パ・ド・カトル』の作曲家チェーザレ・プーニの実孫で、マリインスキー劇場の出身。ペチパのもとで『眠りの森の美女』のカラボス、『エスメラルダ』のカジモドなどを当たり役としたのち1905年に現役引退。パヴロワに請われて彼女のバレエ団の舞踊監督をしばらく務めたのち帰国。革命後はレニングラードで長く後進の指導にあたり、ロプホーフ、アニシモワらを育てた。こうして二人の芸歴をざっと記しただけで、ノヴィコフとシリャーエフが当時パヴロワのバレエ団で果たしていた役割の大きさが実感できよう。
「チャールダーシュ」でデュエットを踊ったガシェフスカ、シュワロフについては、前者が1914年のアメリカ巡業に参加したことが判明するのみで、経歴などは不詳。そのほかの演目で、プログラムにダンサー名が記されていないバレエはおそらく群舞だったのだろう。といっても、パヴロワのバレエ団はごく小規模だったので、数人からせいぜい十人程度が舞台に並ぶのが精一杯で、バレエ・リュスの圧倒的な群舞とはとても比較にならなかったはずだ。
ところで、伊藤が報告しなかった当日の公演「第二部」以降についても、その内容はある程度までは想像できる。おそらくバレエ団の定番レパートリーから『コッペリア』(ドリーブ作曲)抜粋か、『アマリラ』(ドリーゴ、グラズノーフ、ダルゴムィシスキー作曲)といった三十分程度の一幕物バレエが上演されたあと、終盤近くではパヴロワ最大の当たり狂言である人気作『白鳥(瀕死の白鳥)』(サン=サーンス作曲)が抜かりなく披露されるという構成だったと推測されよう。【註56】
いずれにせよ、ベルリン到着の直後、生まれて初めて本格的なバレエ公演と遭遇した伊藤道郎の眼には、すべてが現実を超えた夢のなかの出来事のように見えたに違いない。興奮のあまりすっかり冷静さを失い、舞台上で何が展開されているのかもわからぬまま、「唯夢中で見てしまいました」というのが正直な感想であり、「来冬は是非よく見たいと思ふ」と次回の来訪に期待するのが精一杯だったのであろう。

(続く)

 

【註】
44. 山田耕筰は結局ベルリン王立音楽院を卒業することなく、1913年1月18日付で退学した。その背後に潜む事情については今なお謎とされる。この複雑な問題については以下を参照。後藤暢子「自伝『若き日の狂詩曲』批判 ベルリンとディアハーゲンの山田耕筰」『音楽芸術』1986(昭和六一)年2月号、45~46頁。
45. 山田耕筰『若き日の狂詩曲』136頁。
46. 斎藤佳三のベルリンまでの足取りは、同道した伊藤道郎の親族のもとに残された記録から詳しくたどることができる。千田是也「あとがき──夢と現実」ヘレン・コールドウェル『伊藤道郎 人と芸術』中川鋭之助訳、早川書房、1985(昭和六〇)年、164~66頁。
47. 山田耕筰『若き日の狂詩曲』193~94頁。
48. 斎藤佳三と山田耕筰が1914(大正三)年3月に東京の日比谷美術館で開催した「シトゥルム木版画展覧会」については、以下の先行研究を参照のこと。五十殿利治『大正期新興美術運動の研究(改訂版)』スカイドア、1998(平成一〇)年/木村理恵子(編)『ダンス! 20世紀初頭の美術と舞踊』展カタログ、栃木県立美術館、2003(平成一五)年/『東京─ベルリン/ベルリン─東京』展カタログ、森美術館、2006(平成一八)年。
49. 千田是也「あとがき──夢と現実」159頁。藤田富士男『伊藤道郎・世界を舞う 太陽の劇場をめざして』武蔵野書房、1992(平成四)年、26頁。
50. 山田耕筰「ミチオ・イトウのプロファイル」伊藤道郎『美しくなる教室』宝文館、1956(昭和三一)年、序文。
51. Keith Money, Anna Pavlova: Her Life and Art, pp.75ff. アンナ・パヴロワのヨーロッパ進出の経緯には異説もあるが、ここでは同書の記述に従った。本稿に紹介したパヴロワの動静に関しては情報の多くを同書から得ている。
52. 『とりで』5号、1913(大正二)年7月、82頁。
53. 『とりで』5号、86~87頁。伊藤道郎が転記したプログラムのドイツ語原文は以下のとおり(誤記もそのままにした)。
             Gast spiel
               Anna
             Pawlowa
            PROGRAMM.
Ouverture Zur Oper "Susannes Geheimms"
(A) Mazurko...................................Musik von Glinka.
(B) Czardas....................................Grassmann.
Gaschewsku.───Schuwaloff.
(C) Orientalescher Tanz.............Musik von Rubinstein.
(D) Pas de Trois............................Srigo.
Anna Pawlowa───Novikoff.
Schirajeff.
54. リチャード・バックル『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代』上、163頁。
55. 『ANNA PAVLOVA 上演舞踊劇梗概』帝国劇場、1922(大正一一)年9月、4頁。
56. フォーキンの振付による二つの新作バレエは準備に手間取ったため、12月中には上演されなかったことが知られている。Keith Money, Anna Pavlova: Her Life and Art, p.173.