連載「バレエ・リュスと日本人たち」 Ballets Russes et les japonais
第9回 ベルリンの青春[7]
沼辺 信一
28/February/2010
ベルリンの山田耕筰のもとに一枚の葉書が舞い込んだ。差出人は小山内薫。1912(大正元)年12月15日に東京駅を出発した小山内は、敦賀から定期船でウラジオストクへ渡り、18日ここを起点とするシベリア鉄道に乗車し、ハルビン、イルクーツク経由で九日間かけて27日モスクワに到着した。【註70】中心街区のメトロポール・ホテルに旅装を解き、散髪と入浴を済ませた彼は、長旅の疲れを癒しつつ旧知の友人である山田に宛てて近況報告をしたためたのである。葉書そのものは現存しないが、おそらくそれはロシア情緒を色濃く滲ませた写真絵葉書だったはずである。【註71】
こゝまで参りました
一ケ月この国に滞在の予定この町には一月十五日頃までをります
正月の末には御地で御目に掛れます、久しぶりで気焔のあげッくらをしませう。
併し、僕の西洋へ来るのは随分遅れましたねえ。──
小山内薫は後年「築地小劇場」を土方与志とともに設立し、新劇運動の推進役としてわが国の演劇界に決定的な影響を及ぼした。すでにこの時点でも1909(明治四二)年に市川左団次と劇団「自由劇場」を結成し、イプセン、ハウプトマン、ヴェデキント、チェーホフ、ゴーリキー、メーテルランクらの戯曲を演出して、西洋の同時代演劇の上演・紹介に成果を収めつつあった。
小山内には致命的な弱点があった。海外体験のない彼は本場の西洋演劇に接する機会を一度ももたなかった。台本を読むばかりで観たことのない芝居、生活習慣も文化的背景も異なる国々の戯曲を舞台にかける危うさについては、ほかならぬ小山内自身が痛感するところだった。「自由劇場」のブレーンとして数々の戯曲の翻訳を手がける森鷗外も、同じく西洋演劇の移植を志すライヴァルたる「文芸協会」の島村抱月も、新帰朝者としてイプセン劇の紹介に努める中村春雨(吉蔵)も、それぞれ留学時に豊富な観劇体験を有しており、その鮮明な記憶を糧として新劇運動に係わっていた。「文芸協会」を率いる大先達の坪内逍遙ですら、自ら外遊こそ企てないものの、養子の坪内士行を欧米留学に送り出し、実地に舞台まで踏ませている。近代演劇運動の旗手を自負する小山内に内心忸怩たる思いがなかったといえば嘘になろう。
半年間かけて欧州諸国を巡る今回の洋行は単なる物見遊山の旅ではなかった。与えられた日数のすべてをひたすら劇場通いに捧げ、現時点のヨーロッパ演劇の一部始終を脳裏に刻み込まねばならない。「私は欧羅巴に於ける限られた短い月日を全く自分自身の為に費したかつたのです。私は何等の妨げなしに、何等の顧慮なしに、自分の思ふ儘の事がしたかつたのです」。【註72】それは憧れの聖地を訪ね歩く巡礼の旅であると同時に、演出家(当時の呼称では舞台監督)としての将来を賭けた乾坤一擲の旅でもあった。時に小山内三十一歳。葉書の一節「併し、僕の西洋へ来るのは随分遅れましたねえ」に深い感慨が滲み出ている。
親しげな文面から推察されるとおり、小山内薫は五歳年下の山田耕筰とすでに昵懇の間柄であった。三年前の1909(明治四二)年12月、東京音楽学校研究科に在籍しドイツ留学を数か月後に控えた山田は、東京・芝のユニテリアン教会で自作の聖劇『誓の星』を上演するにあたり、小山内に演出を依頼している。二人が出会うまでの経緯は詳らかでないが、「自由劇場」第一回公演のわずか一か月後という慌ただしい時期に小山内がこの仕事を引き受けた事実は、両者が育んできた信頼の絆を彷彿とさせる。山田が自伝のなかで「月島の下宿にゐた、小山内薫を訪うて語りあふことも新鮮な喜びの一つだつた」【註73】と回想するのもその傍証となろう。
モスクワから山田に宛てた葉書には、上に引いた挨拶に引き続き、ベルリンでの宿の手配を依頼する内容が綴られていたものと想像される。欧州屈指の演劇都市ベルリンではかなりの長逗留が予想されるため、便利だが費用の嵩むホテル住まいを避け、安価な下宿(ホームステイ)先を捜してくれるよう依頼したのである。山田はこの時期、王立音楽院への卒業作品の提出、下宿先の娘テア・シュミットとの婚約、バレエ・リュス公演への日参、斎藤佳三や伊藤道郎らのベルリン到着と身辺多忙を極めていたに違いないのだが、ほかならぬ小山内からの頼みとあれば労を厭うことなく、早速シュミット家を介して近所のシャルロッテンブルク区での手頃な宿泊先をあれこれ物色したはずである。
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私の友達の一人はしきりにフォーンの真似をして見せた
それからちょうど一か月後の1913年1月末、小山内はモスクワからペテルブルグ経由でベルリンにやって来る。到着当日の様子について山田の回想は残されていないが、幸いなことに当の小山内が「夜鳥」と題する短篇小説の冒頭でその光景を活写している。【註74】文中「村井」とあるのは小山内自身、「もう三年も前からここに来てゐる旧友の林田」とは山田を指すものと考えられる。
シヤアロツテンブルクの Cauer Strasse、そこに村井の部屋が村井を待つてゐた。
村井はもう三年も前からここに来てゐる旧友の林田に、露西亜のモスコオから手紙を出して、半月も前からこの部屋を借りて置いて貰つたのである──林田はつひ近所の Lützow 消防署の前に住んでゐた。
村井は日曜の朝早く伯林のフリイトリツヒ、シユトラアセの停車場へ着いた。林田と他に二人の友達が、自働車を持つて迎ひに来てゐて呉れた。村井は何処をどう通つたのか分からないで、林田の宿まで来て了つた。家の中はまだ暗かつた。林田は瓦斯に燈 [あかり] をつけた。光つたピアノがある。坐り心地の好ささうな長椅子がある。大きな食卓がある。窓の側には書きもの机がある。壁の側には寝台がある。白い瀬戸作りの暖炉がある。暖炉の前には肱掛椅子がある。モスコオの宿屋の六階の隅の部屋に半月も籠城してゐた村井の目には、林田の部屋が殊の外立派に見えた。
*[ ]内は引用文中のルビ。
小説仕立てなので一字一句を鵜呑みにするのは憚られるが、これが注目すべき証言であることは論を俟たない。「林田」がシャルロッテンブルク区のリュッツォウに住んでいるという一節は、モデルが山田耕筰である何よりの証だろう。山田の寓居は Charlottenburg, Lützow 6(現在の Alt-Lietzow 6)だったからである。【註75】地図で確認すると、「村井」のために用意された下宿の所在地カウアーシュトラーセは確かにリュッツォウとは目と鼻の距離に隣接する街区である。
小山内が「村井」の到着を「日曜の朝早く」としているのも見逃せない。小説のさらに後段で翌日が「Kaiser の誕生日であつた」と説明されるくだりと考え併せると、この日が1月26日であったことが明らかになる(皇帝ヴィルヘルム二世の誕生日は1月27日)。早朝フリードリヒシュトラーセ駅に着くと、「林田と他に二人の友達が、自働車を持つて迎ひに来てゐて呉れた」。夜行列車で荷物を携えて来る小山内のため、山田は奮発してタクシーを手配したのである。同行の「二人の友達」とはおそらく斎藤佳三と伊藤道郎のことであろう。
四人の日本人を乗せたタクシーはベルリン市街をひた走る。小山内は「何処をどう通つたのか分からない」と率直に記すが、おそらくフリードリヒシュトラーセを少し南下してウンター・デン・リンデン大通りに出て、ブランデンブルク門を過ぎるとそのまま西へ直進し広壮な公園ティーアガルテンを通り抜けたことだろう。途中には先般ニジンスキーやパヴロワが公演したばかりのクロル歌劇場の建物が右方に佇んでいたはずだが、冬の朝まだきではその威容が望めたかどうか。
未明のベルリンを二十分ほど走っただろうか、車はシャルロッテンブルク区リュッツォウに着いた。ひとまず「林田」の下宿に招じ入れられて旅装を解く。ここで小山内が「林田」すなわち山田の部屋の様子を一瞥し、「光つたピアノがある。坐り心地の好ささうな長椅子がある。大きな食卓がある。窓の側には書きもの机がある。壁の側には寝台がある。白い瀬戸作りの暖炉がある。暖炉の前には肱掛椅子がある」と簡潔ながら生き生きと描写しているのは貴重このうえない。
すぐ近くに下宿が用意されていると聞かされて「村井は一刻も早く自分の住む所へ行きたくなつた。かれは自分の部屋といふのが早く見たかつた」のだが、ベルリンの友人たちに引き留められた。「林田は中々放さなかつた。外の二人の友達も頻に留めた。村井は故国の新しい消息を三人の前に物語らねばならなかつた」。いったん話し出すともう止まらない。「かれは朝飯から昼飯を通つて、晩飯になるまで、林田の部屋にゐた。晩飯が済んでも、まだ一人で気焔をあげてゐた」。小説のなかではもっぱら「故国についての議論」が交わされたとあるが、実際はどうだったろうか。この日、好奇心旺盛な芸術青年たちの前で、小山内がロシアで実見してきた芝居の数々を全く話題にしなかったとは考えられない。語り尽くせぬほど濃密な観劇体験がモスクワでなされていたからである。
二十五日に及ぶモスクワ滞在中、小山内は劇場に十九回通っているが、うち十三回までがモスクワ芸術座(彼の表記では「美術座」)での観劇だった。ここでゴーリキーの『どん底』、トルストイの『生ける屍』、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』、イプセンの『ペール・ギュント』、メーテルランクの『青い鳥』など十二演目を観ている。【註76】スタニスラフスキーの率いる芸術座はモスクヴィン、カチャーロフ、クニッペル(チェーホフ未亡人)、リーリナ(スタニスラフスキー夫人)ら稀代の名優が織りなす絶妙のアンサンブルと、登場人物の心理を穿つリアリスティックな演出により、当時すでに世界的な名声を得ていた。ロシア語を解さない小山内だったが、『どん底』は「自由劇場」公演で『夜の宿』として自ら演出した経験があり、チェーホフ、イプセン、メーテルランクの戯曲には英語やドイツ語の翻訳で親炙していたので、「一言も詞の分からない」観劇にもかかわらず、「私は私の肉眼を通して舞台の上に見た或人生の縮図を自分の友達に物語るだけの印象は受けたらしく思はれる」。【註77】
とりわけ1913年1月10日(ロシア暦で1912年12月28日)に観た『ハムレット』の印象は鮮烈だった。スタニスラフスキー演出を常とする芸術座としては珍しく、この演目ではイギリスのエドワード・ゴードン・クレイグに全権が委ねられ、因習に囚われない新演出が試みられた。装置にはクレイグ発案の可動式衝立が用いられ、役作りにも創意工夫が凝らされるなど、同劇団では例をみない新奇で実験的な『ハムレット』公演が実現した。【註78】クレイグの演劇理論に著作を通じて早くから傾倒していた小山内は、思いがけずモスクワの地で「幸福にも、この長年焦れてゐた、『舞台の詩人』の、最も大仕掛に完成した作品を、目のあたり自分の肉眼で見る事が出来た」【註79】のである。
三日後の1月13日にはさらに驚くべき体験が待ち受けていた。この日はロシア暦の大晦日に当たっており、小山内はスタニスラフスキー邸での年越しのパーティに招かれたのである。その少し前、彼は「演劇を愛する日本の一青年があなたの劇場を見るのを主な目的にして遙々遠い旅をして来た」【註80】旨をしたためた書状を添えて、ささやかな贈物と「自由劇場」の公演記録をスタニスラフスキーの許に届けており、その返礼として自宅に招待されたのだった。真夜中に始まったパーティでは芸術座の俳優たちが一堂に集って、打ち解けた雰囲気のなかで談笑し、ザクースカに舌鼓を打ち、夜を徹して歌とダンスに興じた。小山内は遠来の賓客として手厚く遇され、スタニスラフスキー夫妻、チェーホフの甥で俳優のミハイル・チェーホフ、『ハムレット』公演でクレイグの助手を務めた演出家のレオポリド・スレルジツキー(Leopol’d Sulerzhitsky)らと膝を交えて語らった。
シャルロッテンブルクの下宿部屋で堰を切ったように迸り出る生々しい見聞談に耳を傾けながら、山田ら三人の留学生は小山内の並外れた情熱と強運に驚かされるとともに、豊穣なモスクワ体験に羨望の念を禁じ得なかったことだろう。わずか一か月足らずの滞在で、彼は芸術座の懐深くにまで分け入ったのである。
もっとも、生の芸術体験の潤沢さという点では山田のベルリンでの三年間も決して小山内に見劣りするものではない。この日はもっぱら聞き役に徹していた彼も、やがて折に触れてオペラを中心とする自らの観劇体験を披歴せずにはいられなかったはずだ。とりわけ、王立歌劇場(リンデンオーパー)で観通したワーグナーの壮大な楽劇「指環」四部作、クロル歌劇場で間近に接した作曲者自身の指揮によるシュトラウスの楽劇『サロメ』の話題は、ロシアでオペラをわずかしか観られなかった小山内の羨望をかきたてるに充分だったろう。山田が事あるごとに吹聴した体験のなかで、小山内をとりわけ悔しがらせたのは、ほんの一か月前にベルリンを訪れたばかりのバレエ・リュス公演の想像を絶する実見報告である。
私が初め伯林へ来た時は、丁度ニジンスキイが伯林を去つた後でした。こゝに長くゐる私の友達の一人は頻にフオオンの真似をして見せました。私は何処かで是非一度ぶつかりたいものだと思ひました。【註81】
小山内がここに匿名で記す「こゝに長くゐる私の友達の一人」とは山田耕筰その人であることに議論の余地はあるまい。ニジンスキーのバレエ『牧神の午後』がいかに特異な振付だったかを伝えるべく、山田は友人の前で自ら「フオオンの真似をして」、ぎくしゃくと様式化された平面的な所作を模倣した。それも一度ならず、「頻に」演じてみせたというのである。本連載の第二回で、1912年6月バレエ・リュスのパリ公演を観た画家の石井柏亭が、帰国後その有様を和歌山の友人・西村伊作に身振りを交えて説明したところ、熊野川に遊んだ西村が「裸になって水に入り」「ニジンスキーの手ぶりをたわむれに真似た」(1913年7月)という挿話を紹介しておいたが、ベルリンの山田と小山内の間でもそれとよく似た現象が起こっていた。ニジンスキー体験が日本人の間で伝播するとき、こうした身体的感応を伴うという事実はことのほか興味深い。
西洋の演劇事情に精通していた小山内は、外遊に出る以前からバレエ・リュスの動静にも少なからぬ関心を寄せ、「フオオキンが所謂 Ballet Russe [バレエ リユツス] の優秀な作者である事は、私は前から聞いて知つてゐました」。【註82】どうやら彼はペテルブルグで公演に遭遇できるかと期待したらしく、「その人の舞踊劇の見られないのを、私はどんなにペテルブルグで悲しんだでせう」と慨嘆している。周知のように、バレエ・リュスは欧州各地を巡演するのみで、ロシア国内ではただの一度も興行を行っていない。かてて加えて、小山内がモスクワとペテルブルグに滞在した1912年末から13年1月にかけて、すでにバレエ・リュスを退団していたミハイル・フォーキンはずっとベルリンでアンナ・パヴロワのバレエ団の新作振付にかかりきりだったのである。
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ちょうどそれと同じ日に、イザドラ・ダンカンの踊りがある
小山内薫のベルリン来訪は山田耕筰の留学生活を一変させた。王立音楽院に卒業作品を提出し(ただし卒業はせずに退学)、私淑するリヒャルト・シュトラウスへの弟子入りを志願するなど、【註83】作曲家としての修練にさらなる磨きをかけ、同時代芸術との接点を渉猟しつつあった山田にとって、小山内という存在は博識で経験豊富な演劇実践者であるのみならず、進むべき道筋を照らし出す心強い水先案内人でもあった。山田自身の回想を引こう。【註84】
[……] 日本からまた一人の珍客が来た。畏友小山内薫である。彼の来伯は、斎藤佳三以上に私を啓発し、刺戟した。
[……] 日本に於けるラインハルトであり、スタニスラフスキィである小山内君が登場して来た。いい意味からも悪い意味からも、嵐が起らずにゐる筈はない。
彼は博究強記の人であるが、それでゐて学者とはなり得ない人柄である。やつぱり、芸術の世界でなければ生き得ない人のやうであつた。一切の知識に乏しかつた私が、彼の感化を受けずにをれる道理はもとよりない。私といふ知識の低地には、彼のもつあらゆる知識が、低きにつく水のやうに、ふしぎもなく流れ入つた。幸ひ卒業制作も書きあげてしまつてゐたので、毎日、彼に随いては芝居を見歩いた。時には、マチネェと夜の公演をぶつ続けて見る事もあつた。
ベルリンはモスクワに優るとも劣らぬ演劇都市だった。当時のドイツ劇壇を牽引する演出家マックス・ラインハルトがこの街を本拠としており、小山内の寄せる期待と関心も当然そこに集中していた。権勢を誇るラインハルトはドイツ座(ドイッチェ・テアター)と隣接する室内劇場(カンマーシュピーレ)、さらには巨大なサーカス場(ツィルクス・シューマン)までも手中に収め、大小さまざまな上演を並行的に進めていた。小山内は到着二日後の1月28日、ドイツ座でメーテルランクの『青い鳥』を観たのを皮切りに、『ロミオとジュリエット』『生ける屍』『ファウスト(第一部・第二部)』の上演に足を運んだほか、サーカス場での『オイディプス王』『イェーダーマン』(いずれもホフマンスタール脚色台本)の大がかりな舞台にも接している。【註85】すでにドイツ語を不自由なく解する山田耕筰は、小山内に同行してそのいくつかを愉しんだに違いない。時には斎藤佳三も誘われて行動を共にしたことだろう。
小山内のベルリンでの体験はオペラ鑑賞にも及んでいる。王立歌劇場に何度か足を運び、幸運にも作曲家自身が指揮するシュトラウスの『サロメ』上演に接する機会を得た【註86】ほか、同じ作曲家の最新作『ナクソス島のアリアドネ』(2月27日のベルリン初演もしくはその直後の再演)やワーグナーの『タンホイザー』の舞台にも遭遇できた。【註87】こうした際には歌劇場に通い馴れた山田がおそらく率先して先導役を務め、斎藤はもちろんのこと、オペラ歌手を夢見ていた伊藤道郎をも引き連れてリンデンオーパーへ赴いたものと想像される。
山田の回想はさらにこう続く。
芝居が済むと、いつも行きつけのカフェェにゆき、そこで夜中まで、演劇を中心としての芸術論が戦はされた。さうした席には、もとより斎藤も一緒だつた。私は貪るやうに、あらゆる疑点について質問した。そしてそれは、いつも快く説き明かされた。時には、斎藤と小山内君の間に、烈しい議論の戦はされる事もあつた。もとより斎藤は小山内君の敵ではなかつた。然し斎藤も、時には鋭く小山内を衝いて、容易に屈服しない。それを聞いてゐるのも、私にとつてはいい勉強と刺戟になつた。
夜更けのカフェの片隅で口角泡を飛ばして演劇論に熱中する芸術青年たちの姿が目に浮かぶようだ。20世紀初頭のベルリンに花開いたカフェ文化の只中で、ささやかながら日本人もその一翼を担っていたのである。
期待が大きすぎた代償として、ベルリンの小山内はしばしば深い失望と落胆を味わわされた。ラインハルトが創りあげた舞台は大仕掛で壮麗そのものだが、肝腎の演出が手薄で「少しも内面的な所がない」ため、「隠された物の内容を人に伝へる事の出来ない」芝居だというのが偽らざる感想だった。王立歌劇場で鑑賞したオペラにしても、音楽面での充実はともかく、演技と舞台装置がいかにも常套的で古めかしく、同時代演劇として小山内を触発するには到らなかったらしい。
結局、この街で小山内が最も感銘を受けた劇場は、ラインハルトのドイツ座ではなく、そこから程近い距離にあるレッシング座(レッシングテアター)だった。この劇場はオットー・ブラームが主宰する劇団「自由舞台 Freie Bühne」が永く本拠地とし、ハウプトマンやイプセンの意欲的な上演で広く知られていた。ブラーム自身は1912年に惜しくも急逝してしまったが、小山内が訪れた時点ではなおその遺風を受け継ぎながら従来のレパートリーが忠実に演じられていた。
小山内は常連客としてこの劇場に足繁く通い、ハウプトマンの『海狸の外套』『沈鐘』『ローゼ・ベルント』『織工』『寂しき人々』、イプセンの『社会の柱』『青年同盟』『ヘッダ・ガーブレル』『海の夫人』といった自然主義演劇の代表作を心ゆくまで堪能した。「私はいつでも土間の三列目の真ん中の席で見た。しまひにはカツセでも私の顔を覚えて了つて、私が切符を買ひに行くと、黙つて三列目の廿九番を出して呉れるやうになつた」。【註88】
ある日のこと、レッシング座でイプセンの『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』が近日上演されるとの予告ポスターが街頭に貼り出された。小山内は逸る心をどうにも抑えることができなかった。これは彼にとって他のいかなるイプセン劇とも異なる、特別な意味をもつ芝居だったからである。三年前の1909(明治四二)年11月、東京で市川左団次とともに劇団「自由劇場」を立ち上げた際、初公演(第一回試演)の舞台にかけたのがまさにこの作品、森鷗外の訳による『ジヨン・ガブリエル・ボルクマン』だった。小山内は後にも先にも、自分が演出したもの以外、この戯曲が演じられるのを一度も観たことがない。これだけはどうしても観ないわけにいかないのだ。
[……] 或週の水曜日にこれが出るといふ広告を辻びらで読んだ時、私の心は踊つた。この曲は私にとつて、最も縁の深い、最も思ひ出の多い戯曲である。私は何を置いてもこれを見なければならないと思つた。ところが丁度それと同じ日に、ツヤロツテンブルクのウルフユルテン、オパアでイサドラ・ダンカンの踊りがある事になつた。私はこれも是非見なければならないと思つた。私はどうして好いか分からないで、一人で焦 [ぢ] れてゐた。【註89】
同じ日に、別の劇場でイザドラ・ダンカンの舞踊公演があるというのである。
(続く)
【註】
70. 小山内薫の東京からモスクワまでの旅程については以下を参照。小山内薫「モスクワの一夜」『中央公論』臨時増刊(世界大観号)、1916(大正五)年7月、236~56頁。この文章を丹念に読むと、モスクワ到着は従来そう信じられてきた1912年12月26日でなく12月27日(ロシア暦で12月14日)だったことがわかる。
71. 久保栄『小山内薫』文芸春秋新社、1947(昭和二二)年、86頁。
72. 小山内薫「モスクワの一夜」240頁。
73. 山田耕筰『若き日の狂詩曲』131頁。
74. 小山内薫「夜鳥」『三田文学』6巻4号、1915(大正四)年4月、1~2頁。本篇はベルリンでの体験や見聞に基づく他の短篇とともに小説集『伯林夜話』(春陽堂、1916年)に収められたが、ほどなく発禁処分に遭っている。なお、同書所収の短篇「「みみづく」の話」にも、山田耕筰と思われる「若い、有望な作曲家」が語り手として登場し、ベルリンでのドイツ人娼婦との交際を回想する。
75. 後藤暢子「自伝『若き日の狂詩曲』批判 ベルリンとディアハーゲンの山田耕筰」49頁(註15)。
76. 小山内薫「露国で見た芝居」(一)『東京日日新聞』1913(大正二)年3月30日5面。「私は二十五日の間に漸く十三回美術座の芝居を見る事が出来た。『どん底』を二回、トルストイの『生きた死骸』を一回 [、] チエエホフの『桜の庭』を一回、同じ詩人の『三人姉妹』を一回、同じ人の『ワアニヤ伯父さん』を一回、イプセンの『ペエル、ギユント』を一回、『ハムレツト』を一回、マアテルリンクの『青い鳥』を一回、ツルゲエネフの五幕物の喜劇『田舎の一ト月』の通しを一回、同じ詩人の一幕物『ナフレエブニツク』[……] と『田舎』(原名『プロヰンチアルカ』)とそれに『田舎の一ト月』の二幕目だけを附けたのを二回、オストロウスキイの五幕物の喜劇で『ナ、ウスヤカゴオ、ムウトレチヤ、ドヲレノオ、プロストチユ』といふ題のもの [……] を一回。之だけである」(原文は総ルビ)。
これらの観劇の折りに小山内が買い求めた舞台絵葉書が現存し、慶應義塾大学図書館所蔵「小山内薫演劇絵葉書コレクション」としてネット上に公開されている。[→画像参照]
77. 小山内薫「美術座の『どん底』」『演芸画報』1913(大正二)年12月号、148頁(原文は総ルビ、文中の「見た」に傍点)。
78. モスクワ芸術座での『ハムレット』初演は1912年1月4日(ロシア暦で1911年12月23日)。小山内が観劇したのはちょうど一年後の再演である。『ハムレット』上演の経緯については以下を参照。エドワード・クレイグ『ゴードン・クレイグ 20世紀演劇の冒険者』佐藤正紀訳、平凡社、1996(平成八)年、304~45頁/スタニスラフスキー『芸術におけるわが生涯』(下)蔵原惟人、江川卓訳、岩波文庫、2008(平成二〇)年、96~126頁。
79. 小山内薫「美術座の『ハムレツト』──純白と鎔金との芸術」『演芸画報』1913(大正二)年10月号、144頁(原文は総ルビ)。
80. 小山内薫「露西亜の年越し」『三田文学』5巻5号、1914(大正三)年5月、6頁。
81. 小山内薫「バレエ、リユツス」『東京朝日新聞』1913(大正二)年8月9日6面(原文は総ルビ)。
82. 小山内薫「瑞典へ」『伯林夜話』春陽堂、1916(大正五)年、250頁。
83. 山田耕筰の音楽院退学は1913年1月18日、シュトラウスへの入門志願は2月頃のこととされる。後藤暢子「自伝『若き日の狂詩曲』批判 ベルリンとディアハーゲンの山田耕筰」45~46頁/後藤暢子「シュトラウスと日本の楽壇」230頁。
84. 山田耕筰『若き日の狂詩曲』201~02頁。
85. 小山内薫「ラインハルトの印象」『新日本』4巻7号、1914(大正三)年6月、56~64頁/4巻8号、1914(大正三)年7月、94~102頁。
86. 小山内薫「本郷座の『サロメ』」『演芸画報』1915(大正四)年6月号、150頁。このとき主役を演じたゲルタ・バルビー(Gerta Barby 1872~1938)はケムニッツ市立歌劇場で活躍したソプラノ歌手。『サロメ』を当たり役としていた。[→画像参照 ]
87. 小山内薫「独逸の諸市及び維納で見た芝居」(初出紙誌不明)『小山内薫全集』第七巻、春陽堂、1931(昭和六)年、399~416頁。小山内はこのあとドレスデンで『ナクソス島のアリアドネ』を、ウィーンで『タンホイザー』をそれぞれ観直している。
88. 小山内薫「レツシング座で見た芝居」『番紅花』1巻5号、1914(大正三)年7月、1~2頁。
89. 小山内薫「レツシング座で見た芝居」5~6頁。