連載「バレエ・リュスと日本人たち」 Ballets Russes et les japonais
第10回 ベルリンの青春[8]
沼辺 信一
12/March/2010
イザドラ・ダンカンはそれまでの人生の節目をしばしばベルリンで迎えている。ここは彼女にとって最も思い出深い場所のひとつだったはずだ。
家族に伴われて大西洋を渡り、ロンドンとパリでささやかなデビューを果たしたイザドラは、同じアメリカ人の女性舞踊家ロイ・フラーに才能を見出されて巡業一座に加わり、1902年ベルリンで本格的な初舞台を踏んだ。やがてソロとして独立した彼女は翌03年1月にクロル歌劇場で単独公演を敢行、自叙伝で「私はベルリン全市を熱狂させてしまった」【註90】と誇らしげに記すほど目覚ましい成功を収め、古代ギリシアを範とする革新的な舞踊家として名声をほしいままにした。1904年にはベルリンの郊外グルーネヴァルトに別荘を構え、姉エリザベスの協力を得て同地に子供たちのための舞踊学校を設立している。
1904年12月、イザドラはベルリンでエドワード・ゴードン・クレイグと熱烈な恋におちる。互いに似通った資質と芸術観を認め合った両者は、クレイグの装置と演出でイザドラが踊る共同作業を夢想しながら同棲を始め、二人の間にはやがて一子が誕生した。クレイグはダンスにおけるイザドラの卓越した運動能力を手がかりに演劇の本質への考察を深め、小冊子『劇場芸術 Die Kunst des Theaters』(1905年)【註91】を世に問うたほか、彼女が踊る六場面を素描した石版画集『イザドラ・ダンカン:六つの運動習作 Isadora Duncan: Sechs Bewegungs-Studien』(1906年)も刊行した。妻子あるクレイグとの不安定な同居生活はほどなく破綻してしまうが、別離後もクレイグの仕事に対するイザドラの敬意は揺るがなかった。【註92】
熱狂的な支持者を擁するベルリンとの絆は固く、イザドラは1904年から08年まで王立歌劇場(リンデンオーパー)公演を欠かさなかったが、先進的な舞踊が歌劇場内でしばしば守旧派の反発を招き、その後のバレエ・リュス来訪によるベルリンでのバレエ熱の高まりや、イザドラが活躍の場をロシア、アメリカ、フランスへと拡げたことも手伝って、1909年以降はベルリン公演が目に見えて減少した。【註93】グルーネヴァルトの舞踊学校が08年に経営難から閉鎖に追い込まれたのも、この街から足が遠のく一因となったようだ(学校は11年末ダルムシュタットで再開)。いずれにせよ、1910年春ベルリンに留学した山田耕筰にとって、イザドラ・ダンカンはその評判こそ耳にするものの、実際の舞台に触れる機会が滅多にない存在と化していたはずである。
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待ちかねていたように切符売場に駈けつけた
イザドラ・ダンカン久々のベルリン公演の情報を目敏くキャッチしたのは山田耕筰だったように思われる。前年暮のバレエ・リュス公演に足繁く通い、1月にアンナ・パヴロワの舞台に接した彼は、俄かに舞踊芸術への関心を募らせていた矢先、前々から噂に聞いたイザドラの来訪に心ときめかせ、早速その知らせを小山内に伝えたのではなかろうか。
千九百十三年、恰度小山内薫君が伯林に来た時、当時ゲルハルト、ハウプトマンが監督してやつてゐたクワアフュルスト街の新独逸劇場で、イサドラ、ダンカン夫人の舞踊をやると云ふ予告が出た。私はダンカン夫人の事は読んでもゐたし、また聞いてもゐたしするので、小山内薫君と一緒に見物に行くつもりで、切符を買つたりなどして準備をしてゐた。【註94】
これとほぼ同内容であるが、山田が別のところで回想した文章も引いておこう。
私が初めてダンカンの舞踊を見たのは、一九一三年の十二月でした。異境ベルリンに於いて、而かもそれが小山内兄と御一緒だつたといふことも、その時の印象に、別趣な色彩を与へます。ダンカンに就いてはそれ以前にもいろいろ読んだり、聞いたりして居りましたので、その年のスイーズンに、当時ゲルハルトハウプトマンの監督してゐたクウアフイユルスト街の新ドイツ劇場にダンカンがかゝるといふ予告に接すると、待ちかねてゐたやうに切符売場に駈け付けて行つたのでした。【註95】
「小山内薫君と一緒に見物に行くつもりで、切符を買つたりなどして準備をしてゐた」「ダンカンがかゝるといふ予告に接すると、待ちかねてゐたやうに切符売場に駈け付けて行つたのでした」との記述から察するに、イザドラ公演をいち早く知った山田がまず率先して前売券を手に入れ、小山内に同行を促すという経緯だったのだろう。文中の「クウアフイユルスト街の」劇場とは耳慣れない名だが、これはシャルロッテンブルク区の繁華街に1911年から二年間だけ存続した短命のオペラ劇場、クアフュルステン歌劇場(Kurfürsten-Oper クアフュルステン・オーパー)【註96】のことである。山田たちの寓居からも至近距離にあった。
小山内がイザドラ・ダンカンの名にすぐさま反応したのは言うまでもない。同時代のあらゆる西洋演劇に精通し、とりわけゴードン・クレイグの動静に目を光らせていた彼は、クレイグのかつての恋愛相手で、こよなき霊感源でもあったイザドラの存在に無関心ではいられなかった。実は日本の演劇通の間でも、1908(明治四一)年頃から「ミッス・ダンカン」「ダンカン女史」の欧米での活躍がしばしば取沙汰され、小山内が洋行に発つ少し前の『シバヰ』誌には、彼女の舞踊の革新性を手際よく論じた記事が掲載されていた。【註97】前回にも引用したように、小山内が「ツヤロツテンブルクのウルフユルテン、オパアでイサドラ・ダンカンの踊りがある事になつた。私はこれも是非見なければならないと思つた」と記すのも、蓋し当然の成り行きだったのである。
イザドラ・ダンカンの1913年は、通算五度目になるロシアへの公演旅行で幕を開けた。1月から2月にかけて厳寒のモスクワ、キエフ、ペテルブルグを巡演したのち、その帰途3月にはベルリンに立ち寄り、パリ公演が開始されるまでの短期間この懐かしい街に滞在するという旅程である。ペテルブルグからフランスの友人に宛てたイザドラの私信から引用しよう。
ご親切なお手紙ありがとう。当地では慰められないままに──零下十二度という気温の中で孤独に過ごしております。
数々の「成功」、しかしそれは幸福を意味しません! 私はこれまで懸命に働いてきました。今はとても疲れています。明日、最終公演を終えて発ちます──ベルリンへ向けて。そちらで三月十日、十二日、十四日と踊った後に──パリへ帰れるかと思います! パトリックとディアドリーに会えるなんて、本当に嬉しい。ホームシックにかかっています。【註98】
文中のパトリックとディアドリーとはイザドラの実子。ディアドリーはクレイグとの間にもうけた長女(六歳)、パトリックは新しい恋人の大富豪パリス・シンガーとの間に生まれた長男(二歳)である。二人の子供たちは乳母に伴われてフランスのヌイイにあるイザドラの館からはるばるベルリンまで旅し、母親と合流する手筈になっていた。
手紙の文面からはさらに期せずして、今回のベルリンでの公演日程が3月10、12、14日の三日間だったことも判明する。
山田はそのうちの適当な一日を選んで予め切符を購入した。ところがその日は折悪しく小山内がレッシング座でイプセンの『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』を観劇する予定日とかち合ってしまった。「或週の水曜日にこれが出るといふ広告を辻びらで読んだ時、私の心は踊つた。[……] 何を置いてもこれを見なければならないと思つた。ところが丁度それと同じ日に、ツヤロツテンブルクのウルフユルテン、オパアでイサドラ・ダンカンの踊りがある事になつた」。小山内が書き留めた「或週の水曜日」との記載を信ずるならば、これは三日間の公演日のうちで3月12日に該当しよう。【註99】
念願のイプセン劇か、イザドラの舞踊公演か。同じ日の観劇をどちらにするか決めかねて、小山内は「どうして好いか分からないで、一人で焦 [ぢ] れてゐた」。ところが数日後、この煩悶は難なく解消されてしまう。
[……] 二三日して、又レツシングの辻びらを見ると、Wochenspielplan [=週間上演予定表] がもう少し延びてゐて、そのでは次の週の月曜日に又『ジヨン・ガブリエル・ボルクマン』が出るとしてある。私は大喜びに喜んで、何の顧慮もなく、ダンカンの踊りの水曜の切符と、レツシングの月曜の切符とを買つて了つた。【註100】
くだんの芝居の続演が発表されたため、3月12日は心おきなくイザドラ公演に赴き、次週の3月17日を『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』観劇に充てることで一件落着したのである。しかしながら、思いがけぬ椿事が彼を待ち受けていた。
ところが、水曜の晩、『ジヨン・ガブリエル・ボルクマン』が済んでから、レツシツグ [ママ] 座の楽屋に小さな火事があつて、当日使つた大道具をすつかり焼いて了つた。そこで次週の出し物が急に変る事になつた。それを知つた朝、私は直ぐレツシングのカツセへ行つて、自分は『ジヨン・ガブリエル・ボルクマン』が是非見たいのだが、こなひだ買つた切符をこの次同じ物の出る時の切符と取換へては呉れまいかと頼むと、プログラムが変つたのだから切符の代は現金でお返しゝても好い。併し、道具をすつかり焼いて了つたのだから、今の所ではこの次いつ出るか分からないと言ふのである。私はすつかり失望して了つた。
万事休す。小山内はイザドラ鑑賞と引き換えに、ベルリンで『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』上演に接する千載一遇の機会を逃してしまった。どうにも悔やみきれない結末である。そのせいもあろうか、管見の限りでは小山内はイザドラの舞台について一言も書き残していない。当代随一の見巧者から感想が聞けないのは全くもって残念というほかない。
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私は初めて人間の舞踊に接するような気がした
その欠落を補って余りあるのが、山田耕筰による委曲を尽くしたイザドラ鑑賞記である。三篇ほど残される山田の回想のうちで最も詳しい「イサドラ・ダンカンの芸術」の冒頭部分を省略なしに再録することにしよう。ベルリンでの観劇から九年後の1922(大正一一)年、それももっぱら記憶のみに基づく回想なので、不確かな細部が含まれるものの、山田が受けた第一印象の強烈さをまざまざと実感させる内容である。【註101】
私が初めてダンカンの舞踊を見たのは、一九一三年、彼女が伯林のクワフィュルステンダム座で踊つた時のことでした。そのときの出し物は重にソロ、ダンスで、確かショパンのノクチュルネなどがプログラムの中の主要な地位を占めてゐたやうに記憶して居ります。その外、弟子の子供を使つて、シューベルトのモマン、ムズィコーや、マルシ・ミリテヤなどを踊つたのも、忘れられぬダンカンの印象の一つです。
どうやら手許に何一つない状態での執筆らしく、演目については「確かショパンのノクチュルネなどがプログラムの中の主要な地位を占めてゐたやうに記憶して居ります」と記述がいささか心許ないが、イザドラがソロで踊る部分と、「弟子の子供」すなわち当時ダルムシュタットにあった彼女の舞踊学校から呼び寄せた生徒たちが登場する部分とで、当夜の舞台が構成されていたことだけはわかる。生徒たちが踊った演目にはシューベルトのピアノ曲「楽興の時 Moments musicaux」と「軍隊行進曲 Marche militaire」が含まれていた(この日の全演目については後述するが、さすがに山田の記憶はおおむね正確である)。
[……] 当時私は、ニジンスキーの踊りを十回ばかり見通して後、パヴロヴァ一派の舞踊を見て、ロシャン・バレーと自分との間に埋めやうのない間隙を感じ始めてゐた時でしたので、クワフィュルステンダム座の幕が上つて、クリームがゝつた灰色の薄い希臘式寛衣をまとうて、跣足のまゝ、深い暗緑色の天鵞絨の幕を背後に、漆黒なピアノに半ば身をもたせて立つてゐるのを見た瞬間には、今まで味つた事のない或る一種の霊気がぞくぞくと全身に沁み渡つて行くのを覚えました。
前年12月に日参したバレエ・リュス公演と1月に観たアンナ・パヴロワの舞台からそれぞれ深い感銘を受けた山田だったが、目覚ましい妙技ときらびやかな舞台に圧倒されつつも、諸手をあげて称賛しきれない複雑な思いに駆られたらしく、「ロシャン・バレーと自分との間に埋めやうのない間隙を感じ始めてゐた」とその胸中が明かされる。イザドラ・ダンカンとの出逢いは、彼のなかに燻っていたロシア舞踊への漠たる不満や違和感をむしろ際立たせ、その正体を明らかにする契機となったのである。
幕が上がると舞台には「クリームがゝつた灰色の薄い希臘式寛衣をまとうて、跣足のまゝ、深い暗緑色の天鵞絨の幕を背後に、漆黒なピアノに半ば身をもたせて」イザドラがひとり佇んでいる。そこには色鮮やかな衣裳も、人目を惹くような装置も登場しない。大編成のオーケストラすら伴わない。ロシア人たちの創造した過剰なまでに豊穣華麗な舞台とはなんという隔たりだろう。余分なものを排した簡素な空間が山田の心を捉え、「今まで味つた事のない或る一種の霊気がぞくぞくと全身に沁み渡つて行くのを覚えました」。
彼は舞台の背後が一面「深い暗緑色の天鵞絨の幕」で覆われていたと記すが、このように暗色の背景幕を用いて踊る身体をくっきり際立たせるのは、以前からイザドラの常套手段だった。【註102】舞台上には「漆黒なピアノ」一台だけが置かれ、専属伴奏者が演奏するピアノ曲に合わせて踊るというのが巡業公演の通例である。ただし、時にオーケストラが用いられる場合もあり、過去にはベルリン・フィルハーモニーがピットに入ったこともあった。
[……] さうなると余計冷い批評の眼を向け度くなる、いこぢな私ですけれど、見てゐる中に私のかたくなゝ心持は自然に解けて来ました。少くとも彼女の中には、ロシャン・バレーの中に巣食うてゐる妙な形とか、低級な禽獣模倣とかの分子を見出す事が出来ません。私は初めて人間の舞踊に接するやうな気がして、只訳もなくダンカンに感心してしまひました。
ここでロシア舞踊に山田が感じていた違和感の正体が明かされる。「ロシャン・バレーの中に巣食うてゐる妙な形」とはバレエが伝統的に育んできたパ(ステップとポーズ)からなる独特の形式を意味し、「低級な禽獣模倣とかの分子」とは『火の鳥』や『瀕死の白鳥』の振付にみられる動物の仕草の模倣、『牧神の午後』における牧神の獣的な所作を指すのであろう。山田はこうしたバレエ一般に付きまとう形式的な(それゆえ不自然な)約束事にどうしても馴染むことができなかった。
質素な古代風のチュニック(寛衣)をまとい裸足で佇むイザドラの姿を目にして、「私は初めて人間の舞踊に接するやうな気がして、只訳もなくダンカンに感心してしまひました」。彼はこのとき、バレエの束縛から解き放たれた自由な舞踊の可能性を直感したのである。
開幕時の自然なポーズで先づ強い感動を与へたダンカンは、音の起るにつれて、ごく自然な運動を始めました。一曲を踊り終るとダンカンは、倒れるやうにスティヂに身を伏せました。踊り終つても、別に幕が下るのでもありません。彼女はいゝ時分になるとごく自然に起き直つてピアノの傍に歩み寄り、乱れた髪をなほしたりなどしてゐました。かうしてインタヴァルまで、とうたう一回も幕を下す事なしに、いくつかの踊りを踊り続けました。が、私の一番感心したのは、スティヂに於ける彼女の動作がひとつひとつそのまゝに美しい踊りであつて、仮令、どんな違つたアィテムが出て来ても、開幕から休憩まで、一貫した一つの舞踊を踊り通してゐるやうな感を与へた事です。彼女の芸術の美点も此処にあるのではないかと思ひます。
一つの演目を踊り終えても幕は下りず、イザドラは退場せずそのまま舞台に留まって、「倒れるやうにスティヂに身を伏せました」。横臥の姿勢をしばらく保ったあと、「彼女はいゝ時分になるとごく自然に起き直つてピアノの傍に歩み寄り、乱れた髪をなほしたりなどしてゐました」。曲が終わり拍手で中断されることはあっても、イザドラの舞踊はそこで途絶えることがなかった。舞台における彼女のあらゆる動作──躍動するダンスばかりか、曲の合間のさりげない仕草までもが連携しあい、緩急自在の大きな流れをかたちづくっていた。「スティヂに於ける彼女の動作がひとつひとつそのまゝに美しい踊りであつて、仮令、どんな違つたアィテムが出て来ても、開幕から休憩まで、一貫した一つの舞踊を踊り通してゐるやうな感を与へた事です」。
次回に詳述することになるが、この晩のプログラムの前半はすべてショパンのピアノ曲で埋め尽くされていた。夜想曲、前奏曲、マズルカなど十九の小品がたて続けに奏され、演じられたはずである。多くはすでに山田にとっても親しい音楽だったであろう。にもかかわらず、個々の楽曲をじっくり玩味する心の余裕はなかったに違いない。多彩な音楽を束ね合わせ、息もつかせぬ「一貫した一つの舞踊」として踊り抜いた自由で柔軟な肉体こそが山田を魅了したからだ。
(続く)
【註】
90. イサドラ・ダンカン『わが生涯』小倉重夫、阿部千律子訳、冨山房、1975(昭和五〇)年、125頁。
イザドラの自叙伝には記憶違いに起因する誤りが散見されるので、事実関係の確認のため、本稿では必要に応じて以下の諸書も参照した。
Victor Seroff: The Real Isadora, The Dial Press, New York, 1971.
Fredrika Blair: Isadora: Portrait of the Artist as a Woman, McGraw-Hill, New York, 1986. [邦訳=フレドリカ・ブレア『踊るヴィーナス イサドラ・ダンカンの生涯』鈴木万理子訳、PARCO出版局、1990(平成二)年]
Dorée Duncan, Carol Pratl and Cynthia Splatt: Life into Art: Isadora Duncan and Her World, W. W. Norton, New York & London, 1993.
Frank-Manuel Peter (ed.), Isadora & Elizabeth Duncan in Deutschland, Wienand, Köln, 2000.
Isadora Duncan: Une sculpture vivante, Musée Bourdelle/ Paris Musées, 2009-10.
91. 小山内薫はクレイグの『劇場芸術』の英語版 The Art of the Theatre(1905年)をいち早く入手し、その概要を講演草稿「『演劇美術問答』」として1907(明治四〇)年8月の『歌舞伎』誌上で紹介した。これは日本におけるクレイグの演劇論紹介の嚆矢とされる。
92. クレイグとイザドラの恋愛の経緯については、以下に信頼できる記述がある。エドワード・クレイグ『ゴードン・クレイグ 20世紀演劇の冒険者』234~314頁/フレドリカ・ブレア『踊るヴィーナス イサドラ・ダンカンの生涯』99~203頁。
93. イザドラのベルリン王立歌劇場での公演については以下を参照。菅原透『ベルリン三大歌劇場 激動の公演史 [1900-45]』アルファベータ、2005(平成一七)年、186~87頁。
94. 山田耕作「ブルッフ氏とダンカン夫人 親しく会つた海外芸術家の印象(八)」『新潮』26巻5号、1917(大正六)年5月、16頁(原文は総ルビ)。
95. 山田耕作「イサドラ・ダンカン女史」『女性』3巻4号、1923(大正一二)年4月、274頁(原文は総ルビ)。文中の「一九一三年の十二月」は「一九一三年の三月」の誤りである。
96. 菅原透『ベルリン三大歌劇場 激動の公演史 [1900-45]』101~02頁。経営難からわずか二年間しか存続しなかったクアフュルステン歌劇場の名は、もっぱらヴォルフ=フェッラーリの歌劇『マドンナの宝石』の世界初演(1911年12月23日)の場として記憶される。同劇場の最終公演は1913年3月16日。
97. 中谷徳太郎「新しき舞踊」『シバヰ』1912(明治四五)年3月号、11~21頁。
98. フレドリカ・ブレア『踊るヴィーナス イサドラ・ダンカンの生涯』222~23頁。手紙の宛先は建築家のルイ・シュー(Louis Sue)。
99. 後述するように、斎藤佳三も同じ日のイザドラ・ダンカン公演に足を運んでいるのだが、彼は下記の論考のなかで、当日のプログラムを参照しながら「自分が彼女の舞台を始めて見たのは一九一三年五月十二日伯林のクルフユルシテンオペラ座であつた」と記している。「五月」は「三月」の誤記もしくは誤植であることが確実なので、この斎藤の証言からも彼らの観た公演日は1913年3月12日と特定できよう。斎藤佳三「近代舞踊と私の新作に就て」『中央美術』8巻3号(踊とダンス)、1922(大正一一)年3月、113頁。
100. 小山内薫「レツシング座で見た芝居」6頁。
101. 山田耕作「イサドラ・ダンカンの芸術」『近代舞踊の烽火』アルス、1922(大正一一)年、69~72頁。
102. イザドラの自叙伝によれば、1903年1月にベルリンのクロル歌劇場でデビューした際も「私の飾りつけのない青いカーテンを背景として」踊った。のちにクレイグがこの暗色のカーテンを自分のアイディアの盗用だとイザドラを詰ったとき、彼女は「これは私の考案した碧いカーテンですわ。私が五歳の時の発明で、今までずっとこれで踊っているのよ」と応えたという。イサドラ・ダンカン『わが生涯』125、191頁。