連載「バレエ・リュスと日本人たち」 Ballets Russes et les japonais
第11回 ベルリンの青春[9]
沼辺 信一
26/March/2010
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彼女の生活や動作そのものが、ごく自然な、美しい踊りである
一時間ほど経っただろうか、ショパンのピアノ曲を続けざまに踊るイザドラ・ダンカンにすっかり魂を奪われ、夢心地で見惚れていた山田耕筰の視界を遮るように幕が静かに下りた。客席に灯が点り、我に返った山田は傍らの小山内薫と小さく頷き合うと、意を決したように席を立った。そのまましばらく余韻に浸りたかったが、彼にはこの休憩時間に果たすべき任務があったのである。
かうして第一部を見終つた私は、落ちついて感激を噛みしめてゐる暇もありませんでした。といふのは、同行の小山内兄が、是非とも此の踊り手に贈り物をし度いといふので、私が小山内兄に代つて、第一部と第二部との間に楽屋裏へ行くことになつてゐたからであります。橋渡しの役目は引き受けたものゝ、かうしたアドヴエンチユア?には不慣れな私でしたので、日本流に水引をかけた贈り物の包み──たしか三越あたりで買つて来られた刺繍入りのブラウスだつたと思ひます──を小脇に、薄暗い舞台の裏に廻つて行く間も、内心ずゐぶんびくびくしてゐたものです。私は此の包みに小山内兄の名刺と、代理人である私のとを添へて、予じめ買収してあつた小使に取次ぎを頼みました。[……] 【註103】
イザドラにどうしても贈物がしたいと小山内が言い出したのだ。「刺繍入りのブラウス」を前もってベルリン市内の「三越あたり」で調達し、それにわざわざ「日本流に水引をかけ」贈答品に仕立てたものを持参してきたという。
それで見物の日、小山内君はダンカン夫人に是非何かを贈りたいといふので、絹の刺繍のあるブラウスを三越で買つて持つて行くことにした。小山内君は、自分はかういふことに慣れないから君が遣つて呉れといふので、私は引受けた。そして、私は日本流に包んで水引を掛けた品物を持つて行つた。【註104】
自ら発案しておきながら、いざ実行する段になると小山内は怖気づいて「自分はかういふことに慣れないから君が遣つて呉れ」というのである。実を言えば「自分はかういふことに慣れない」とは真っ赤な偽りで、小山内が著名な舞台人に贈物をしようと思い立ったのはこれが初めてではない。彼はモスクワ滞在中にも芸術座の主宰者スタニスラフスキーと名女優クニッペル(チェーホフ未亡人)に、それぞれ熱烈なファンレターを添えた贈答品を進呈していた。【註105】それらの贈物と手紙が機縁となって、大晦日の夜に芸術座のメンバーが集う年越しパーティに小山内が招待された経緯はすでに述べたとおりである。
外遊に出る以前からモスクワ芸術座の熱烈な崇拝者だった小山内がその公演に日参し、ささやかな贈物を持参したのは心情的に理解できようが、イザドラ・ダンカンに対しても同様に反応するとはいささか意外である。しかも彼は実際の舞台に接しないうちから「是非とも此の踊り手に贈り物をし度い」と言い募る。イザドラは確かにエドワード・ゴードン・クレイグのかつての同伴者ではあるが、それだけの理由でここまで思い詰めるだろうか。
小山内はモスクワで芸術座の年越しパーティに招かれ、スタニスラフスキーやスレルジツキーと親しく言葉を交わした際、数日前に観たばかりのクレイグ演出の『ハムレット』を話題にした。【註106】その歓談中、ひょっとして二人は上演にまつわる逸話として「アイセドラ・ドゥンカン Айседора Дункан」、すなわちイザドラ・ダンカンの名を口にしたのではないか。スタニスラフスキーにクレイグの才能を力説し、紹介の労をとることで『ハムレット』上演へと途を拓いたのはほかならぬイザドラだったからである。自叙伝でスタニスラフスキーが彼女について述懐した一節を引いておこう。【註107】
私たちの話のあいだにダンカンはたえずゴードン・クレイグの名を引合いに出した。彼女は彼を天才であり、現代演劇界での最大の人物の一人であると考えていた。[……]
彼女は私と私たちの劇団について彼に手紙を書き、ロシアへくるように彼を説得した。私もまた私たちの劇団の理事会を説きつけて、偉大な演出家を招待し、そのことによって私たちの芸術に刺戟をあたえ、新しい精神的な醗酵素をそれに注ぎ入れようとした。
感銘深かったモスクワ芸術座の『ハムレット』実現の陰の立役者がイザドラだと聞かされたからこそ、小山内はまだ観ぬ彼女に格別の憧憬と感謝の念を抱き、ささやかな贈物を届けようと思い立ったのではあるまいか。
そこに至る経緯はどうあれ、伝達役を仰せつかった山田は、「橋渡しの役目は引き受けたものゝ、かうしたアドヴエンチユア?には不慣れな私でした」と謙遜気味だが、実に巧妙に立ち回って任務を全うした。その顛末は以下のとおりである。
私はそれを引受けたけれども、楽屋裏に行つた経験は一度もない。それで小使に取次を頼むと、忙しくてとても会へないと云つて頭から取次いで呉れようともしない。私は、それに鼻薬をする必要があると思つて彼の手に幾らかを握まして取次いで貰つた。もう一人舞台裏の小使といふものがゐる。それにも幾らかを与へて、やうやく会ふ順序が運ばれた。一部と二部との間に一寸会ふといふことである。私は先に品物に小山内君の名刺と、代理人の私の名刺を添へて小使に持たせてやつた。そして、舞台裏で待つてゐた。十二月の寒空に外套なしで酷く寒かつたことを覚えてゐる。
暫らくすると、ダンカン夫人が出て来た。コステユームをつけて、髪は松井須磨子などがよく結つてゐるやうに、後の方から捲き上げるやうにして、コステユームの上には水色のガウンを着て、グリーキ人のやうなサンドルを履いてゐた。私に不調和な気持のしたことは、その後から燕尾服を着た気障なハイカラが監督のやうに、また奴隷のやうに附いて来たことである。
「只今は結構なものを有難う、貴方が小山内さんですか?」
先刻小使に通じて置いたことがよく解らなかつたと見えて、夫人は私に向つてさう云つた。
「いゝえ、私は小山内ではありません。」と、私は小山内君の代理であることを云つた。
それから私が伯林で何をしてゐるかなどといふやうな事を一寸訊いたり話したりしてゐると、軈 [やが] て次の幕が始まるので挨拶をして出て行つた。廊下には花束がずらりと並んでゐた。後で小山内君のところへ鄭重な感謝状が来たといふことだ。
慌ただしい幕間の行動にしては、成果は上々だった。山田は幸運にも直接イザドラと言葉を交わすことができたのである。
山田の鋭い観察眼は、休憩時のイザドラが舞台衣裳のまま「コステユームの上には水色のガウンを着て、グリーキ人のやうなサンドルを履いてゐた」のを見逃していない。彼女の束ねた髪型を松井須磨子になぞらえるのも面白いが、背後にマネージャーらしき「燕尾服を着た気障なハイカラ」が恭しく付き従っている描写も秀逸である。小山内の贈物には心情を切々と綴った手紙が添えられていたに違いない。だからこそ、後日イザドラから「鄭重な感謝状」が届いたのである。
山田はもう一つの回想で、舞台裏でのイザドラの姿をこうも描き出す。
ステーヂを下つたダンカンに近く接した私は、今しがた彼女の踊りから受けた感銘を一層強くしたと同時に、彼女が生まれながらの踊り手であるといふことを一層切実に感じしめられました。即ち、ダンカンはステーヂの上に於いて──殊に踊りと踊りとの間に於いてさうであつたやうに、舞台を離れた普通の生活に於いても、絶えず謂ふ所の踊りでない踊りを踊つてゐるといふこと──言ひ換へれば、彼女の生活や動作そのものが、そのまゝにごく自然な、美しい踊りであるといふことであります。私は歩み出て来るその姿や、手を差しのべる形や、応答する時の態度などの中に、いふべからざる美しい踊りを見、見つめてゐるうちに酔はされたやうな気持に我ともなく自失して行つたことを白状しておきます。
休憩時間でもイザドラは間断なく「踊りでない踊りを踊って」おり、「彼女の生活や動作そのものが、そのまゝにごく自然な、美しい踊り」のように感じられた。たまたま垣間見たイザドラの日常的な所作のなかにすら、山田は「いふべからざる美しい踊りを見」、しばし陶然となったのである。
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私はパヴロワよりダンカンの舞が好きです
たいそう奇妙なことに、この日の小山内と山田の行動をほぼそのまま、自らの体験として物語った別人の証言も残されている。伊藤道郎の回想である。【註108】
私は最初ベルリンでイサドラ・ダンカンの踊りを見た。小山内薫さんと一緒に見に行つたのだつた。私は見てゐるうちに、彼女が男だつたら私は非常に嫉妬を感ずるに違ひない、とそんなことを考へてゐた。私のやりたいと思つてゐたことを彼女がすつかりやつてゐるのだ。私はこの人をおいて世界に私の教へを乞ふ人は無いと思つた。それから私は宿へ飛んで帰つて、日本から持つて行つた緋縮緬を一反ばかり持つて、今度は楽屋へ馳けつけた。それを贈り物にしようと思つたのだ。楽屋番に、ダンカンに会ひたいと言つたら、ちよつと訊いて見ようといふから、これはプレゼントだからと緋縮緬を渡した。さうしたら、会つてくれた。ちつともドイツ語を話さないのだ。私の喋るドイツ語は判るらしいのだが、自分では話さない。私はこの人は英国人かなと思つた。私が、あなたの弟子になりたいから、教へてくれと言つたら、私は教へない。自分はこれからズッと旅に出るから駄目だ。然し私の妹のエリザベス・ダンカンがパリーに学校を持つてゐるから、そこへ行つて習つたらいゝだらうと言つた。妹に習へと言はれても、どんな人だか知らないから止めてしまつた。そしていろいろ考へた結果「ダンカンの秘密は音楽にある。自分は大いに作曲を習はなければならない。」さう思ひついてダルクローズへは入つたのである。
イザドラに魅了された伊藤が「日本から持つて行つた緋縮緬を一反ばかり」贈物として携えて「楽屋へ馳けつけた」ところ、幸運にも彼女と会話を交わすことができた。「私のやりたいと思つてゐたことを彼女がすつかりやつてゐるのだ。私はこの人をおいて世界に私の教へを乞ふ人は無い」と確信した彼は、その場で弟子入りを志願したという。もしこれが事実ならば、オペラ歌手志望だった伊藤は、この日イザドラの舞台に触れて電撃的に舞踊へと宗旨替えしたことになろう。後年の世界的ダンサーの誕生に向けて大きく舵が切られた決定的瞬間といえそうだが、ここに記された出来事をそのまま額面どおり受け取るわけにはいかない。
伊藤が物語る顛末は、日本風の衣装を贈物にする段は小山内の、楽屋で対面するくだりは山田の、それぞれの実体験と似すぎているし、感激のあまり下宿まで取って返し、贈物を用意して劇場へ舞い戻るという行動は突飛なばかりか、時間的にも無理があろう。入門を乞う伊藤に向かって、イザドラが「私の妹のエリザベス・ダンカンがパリーに学校を持つてゐるから、そこへ行つて習つたらいゝだらうと言つた」との記述も不正確である。この時点でエリザベス・ダンカン(イザドラの姉)の指導する舞踊学校の所在地はパリでなくダルムシュタットだからである。おそらく伊藤は小山内と山田から一部始終を聞かされ、その忘れがたい記憶をもとに、のちに自らの「実体験」を紡ぎ出したのであろう。
ただし、伊藤道郎の名誉のため急いで付け加えておくが、彼がイザドラの舞台を鑑賞したという事実そのものは揺るがない。公演から二か月後の1913年5月中旬、ベルリンの伊藤から東京の村田実に宛てた私信から引用する。【註109】
独創的の舞踊は、是非日本でも起してもらいたい。ダンカンも、ニジンスキーは見ぬが同じ露国のパブロバーを見た。パブロバーは私が伯林に来た日に見たので、唯夢中で見てしまいました。来冬は是非よく見たいと思ふ。ダンカンは、小山内氏と見に行きました。二つともプログラムが御座いますから御目にかけます。
私はパブロバーよりもダンカンの舞が好きです。ダンカンは、ニジンスキー派の舞は実に不自然で人間の舞り [ママ] でないと申して居ります。なるほどダンカン踊を見ますと全く一つ一つの形が立派なローマ時代の彫刻の様です。それと同時にダンカンが養成して居る舞子の踊も見た。其舞子は十二歳位から十六歳までの女の子で実に自然な気持よい舞でした。この事に付きましては、後便で悉して申上げましよう。
前段にあるアンナ・パヴロワ(公演日はおそらく1912年12月29日)については、連載第七回で検討したとおり、興奮して「唯夢中で見てしま」った伊藤だが、ベルリン滞在も二か月半を経たイザドラ・ダンカン公演では、さすがに舞台を平常心で受け止め、自分なりの判断を下す余裕が生まれている。「ダンカンは、小山内氏と見に行きました」との一節から、伊藤の観た公演もまた小山内や山田と同じ1913年3月12日だったことが判明する。
「私はパブロバーよりもダンカンの舞が好きです」とあるように、伊藤はパヴロワの高度に完成されたバレエよりもイザドラの自由で束縛されない舞踊を好んだ。ただし、この文面からはすぐさま入門を希うほど熱中し帰依した形跡は全くみられない。彼はイザドラがバレエ・リュスの流儀に与せず「ニジンスキー派の舞は実に不自然で人間の舞りでない」と評したとの噂を紹介したのち、「なるほどダンカン踊を見ますと全く一つ一つの形が立派なローマ時代の彫刻の様です」と率直に記している。
新参者だった伊藤はベルリンで山田耕筰や小山内薫に伴われてオペラや演奏会に赴く機会が少なからずあり、その際には両先輩の忌憚のない意見や鑑賞後にカフェで交わされた議論に大いに影響されたと推察される。上に引いた伊藤の評言も、山田がのちに記す「少くとも彼女の中には、ロシャン・バレーの中に巣食うてゐる妙な形とか、低級な禽獣模倣とかの分子を見出す事が出来ません」「スティヂに於ける彼女の動作がひとつひとつそのまゝに美しい踊りであつて、[……] 開幕から休憩まで、一貫した一つの舞踊を踊り通してゐるやうな感を与へた」などのイザドラ評とおおむね一致していよう。ちなみに文中で「ダンカンが養成して居る舞子の踊」とあるのは、ダルムシュタットの舞踊学校の生徒たちが賛助出演した場面を指し、これも山田が「弟子の子供を使つて、シューベルトのモマン、ムズィコーや、マルシ・ミリテヤなどを踊つたのも、忘れられぬダンカンの印象の一つです」と回想するくだりと符合する。
伊藤が東京に書き送った手紙は、同じ機会にイザドラを観た者のうちで最も早い、わずか二か月後の感想であるという以外に、当夜のプログラムを丸ごと転記している点でも史料的価値が高い。便りを受け取った村田実が同人誌『とりで』に(伊藤には無断で)掲載した私信から、その全演目をここに再録しておこう。【註110】伊藤はドイツ語のまま書き写しているので、以下にその日本語訳を示し、若干の註釈を施した(ショパンのピアノ曲については曲名と調性しか記されないので、可能な限り作品番号を同定し、括弧内に明記した)。
「告別の夕(Abschieds-Abend)」
ショパン□ブラームス□シューベルト□リヒャルト・ワーグナーの五つの詩
舞踊=イザドラ・ダンカン
ピアノ=ヘナー・スキーン
《プログラム》
ショパン:
夜想曲 変ロ短調(No. 1, op. 9-1)
夜想曲 嬰ハ短調(No. 7, op. 27-1 もしくは No. 20 op. posth.)
夜想曲 変ホ長調(No. 2, op. 9-2 もしくは No. 16, op. 55-2)
練習曲 変ホ短調(No. 6, op. 10-6)
練習曲 ヘ短調(No. 9, op. 10-9 もしくは No. 14, op. 25-2)
練習曲 変イ長調(No. 10, op. 10-10 もしくは No. 13, op. 25-1)
即興曲 変イ長調(No. 1, op. 29)
前奏曲 ホ長調(No. 9, op. 28-9)
前奏曲 イ長調(No. 7, op. 28-7)
前奏曲 ホ短調(No. 4, op. 28-4)
前奏曲 イ短調(No. 2, op. 28-2)
前奏曲 ハ短調(No. 20, op. 28-20)
ポロネーズ ハ短調(No. 4, op. 40-2)
マズルカ ハ長調(No. 24, op. 33-3)
マズルカ 嬰ト短調(No. 22, op. 33-1)
マズルカ ロ短調(No. 25, op. 33-4)
マズルカ ニ長調(No. 23, op. 33-2)? *伊藤の記す「ニ短調」に該当曲なし。
円舞曲 変ト長調(No. 11, op. 70-1)
円舞曲 変ニ長調(No. 6, op. 64-1 もしくは No. 13, op. 70-3)
=休憩=
リヒャルト・ワーグナーの五つの歌曲(=ヴェーゼンドンク歌曲集)
1. 天使(Der Engel)
2. とまれ!(Stehe Still!)
3. 苦悩(Schmerzen)
4. 温室にて(Im Treibhaus) *原曲では「3」「4」は逆になる。
5. 夢(Träume)
ブラームス:
円舞曲
シューベルト:
円舞曲
円舞曲 ○女生徒たち
軍隊行進曲 ○イザドラ・ダンカンと女生徒たち
楽興の時
プログラムの表題に「告別の夕(Abschieds-Abend)」とあるのが不思議だが、おそらくこれはわずか三日間の旅興行で、今後しばらくベルリン公演は予定されていないという程度の意味であろう。あるいは、程なく閉鎖されてしまう会場のクアフュルステン歌劇場(四日後の1913年3月16日をもって同劇場は廃業)との「告別」を表しているかもしれない。ピアニストのヘナー・スキーン(Hener Skene)はこの時期のイザドラの専属伴奏ピアニストで、今回のベルリン公演に先立つロシア巡業でも常に彼女と行動を共にしていた。
プログラムを概観すると、前半にはショパンのピアノ小品十九曲を連ね、休憩後はワーグナー、ブラームス、シューベルトを配した構成だったことがわかる。このように既存の器楽曲に合わせて踊るのがイザドラの流儀であり、新曲の依嘱はおろか、同時代の音楽はほとんど採り上げられなかった。ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、シュトラウスの新作が立て続けに初演されたバレエ・リュス公演とはきわめて対照的である。ともあれ全二十九曲、伊藤が○印を付した二曲以外は、すべてイザドラ・ダンカンがソロで踊ったというのだから、これは踊り手の肉体に相当な負担を強いる内容だったのではないか。
ショパンの演目では「革命のエチュード」「英雄ポロネーズ」といった誰もが知る名曲をあえて避け、どちらかといえば地味な選曲がなされているのが印象的である。一曲数分程度の小曲ばかりとはいえ、これを十九も連ねて単独で踊り続けるのは並大抵の労力ではなかろう(イザドラは当時三十五歳)。休息をとる必要から、途中の何曲かはあるいはピアノ独奏のみだった可能性もある。
後半のプログラムではワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」が注目されよう。イザドラはワーグナー未亡人コジマと親交があり、『タンホイザー』のバッカナール、『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の徒弟たちの踊り、『パルジファル』の「花の乙女たち」などの楽曲をしばしばオーケストラ伴奏で踊っていた。【註111】ただし、管見の限りでは「ヴェーゼンドンク歌曲集」(女声独唱のための五曲からなる曲集でピアノ伴奏と管弦楽伴奏の二版がある)がレパートリーだった形跡はなく、このベルリンでの上演はごく稀な機会だったようだ。伊藤の書き写したプログラムをみる限り、どうやら独唱抜きでピアノ伴奏のみで踊られたとおぼしい。伊藤は「ヴェーゼンドンク歌曲集」にいたく感銘を受けたらしく、村田への手紙のなかでわざわざ「ワグナーの Der Engel と Schmerzen は最も感じました」と特筆している。
それに続くブラームスの円舞曲(作品39の十六曲のいずれか)やシューベルトのピアノ小品はイザドラが繰り返し踊っていた自家薬籠中の演目である。シューベルト四曲のうち二曲では、「ダンカンが養成して居る娘等」すなわちダルムシュタットから招かれた彼女の舞踊学校の生徒たち(「其舞子は十二歳位から十六歳までの女の子」だった)が舞台に登場し、「軍隊行進曲」ではイザドラと女生徒たちが共演している。そのあと、イザドラが再び単独で現れ、「楽興の時」の一曲を踊って当夜のリサイタルを締め括った。盛大な拍手と喝采が巻き起こり、伊藤の証言によれば「当日は終りましてから余りアンコールが、はげしいので二度も舞りました」。アンコールに何を踊ったのかは残念ながら記されていない。
以上が伊藤道郎の伝える1913年3月12日のベルリン公演の全貌である。ちなみに、この手紙の文面からは彼が歌手から舞踊家へと志望を変えた気配は窺えず、「私は六月から、ライプチツヒに参る様になるかも知れません。それはオペラシンガーの家に同居するのです。そしてライプチツヒのオペラ座へ小僧に入り込む考へです。伯林で劇塲に入ると云ふ事は仲々難かしい事です」と、もっぱらオペラ歌手として将来の抱負が語られるところから察するに、イザドラの舞台を観て直ちに舞踊の道を志したとする後年の回想は事実と異なるのが明らかだろう。
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単一に、純粋に、自然をまじまじと見せつけている
イザドラ・ダンカンのベルリン公演に遭遇した小山内薫、山田耕筰、伊藤道郎の三者三様の反応について検討してきたが、その場に居合わせた四人目の日本人にも登場してもらおう。斎藤佳三である。彼もまた同じ3月12日、クアフュルステン歌劇場の客席から一部始終をつぶさに見守った幸運な一人だった。【註112】
ここに引用するのは1916(大正五)年の「欧洲で見た踊りの印象」と題された鑑賞記である。本稿ではすでに1913年1月のアンナ・パヴロワ公演について触れた箇所を紹介したが(連載第8回)、彼はそれにすぐ続く文章でイザドラの舞台を次のように回想している。【註113】
同じ年の三月に私は、伯林のクルフュールステン、オペラ座でイサドラ、ダンカンの「踊り」を見ました。彼女の芸術については今更私が云はなくとも、既に業に世界的の定評があるのですから、くだくだしく云ひますまい。[……]
私の見た晩はシヨパンのノクチュルネが三つ、プレリユードが五つ、マツルカが四つ、ワルツァーが四つ、エチュードとポロネーズとアンプロンプチュが五つ。それからブラームスのワアルツァが五つ。シユヴベルトのワルツァが一つ、全体で二十三曲をダンカンとヘレネ、スケーネが互ひに踊り、最後のシユーベルトのワルツァはダンカンの妹のエリザベス、ダンカンが、ダルムシュタットに開いてゐる(踊りの)学校の生徒が大勢援助してゐました。
*引用文中の下線部は原文太字。
斎藤もまた伊藤と同じく当日のプログラムを手許に置いて執筆したはずだが、演目の細部には齟齬が生じている。ショパンの夜想曲が三曲、前奏曲が五曲、マズルカが四曲までは伊藤の書き写したプログラムどおりだが、そのあとの演目には不注意からか混乱がみられ、「全体で二十三曲」という数がそもそも列記された曲の総計と合致しない。後半冒頭のワーグナー「ヴェーゼンドンク歌曲集」が抜け落ちているし、末尾に踊られたシューベルトの「軍隊行進曲」と「楽興の時」も漏れている。ピアノ伴奏者のヘナー・スキーンを踊りのパートナーと誤認してしまったのは、実見から三年を経て記憶がすでに曖昧だったためだろう。ただし、「最後のシユーベルトのワルツァはダンカンの妹のエリザベス、ダンカンが、ダルムシュタットに開いてゐる(踊りの)学校の生徒が大勢援助してゐました」と述べるくだりは(エリザベスがイザドラの姉であること以外は)正確である。
このあと斎藤はイザドラの舞台から受けた視覚的な印象について記す。
ダンカンの主様な現れは、「凡てが自然であれ」といふのです。彼は古希臘の彫刻を見て発足した事が此を証してゐます。舞台面には決して強い色彩や明るい光線を用ゐません。何時でも灰色の幕を柔らかに三方に垂れてゐるのです。ノクチュールネの場合等、月光の幽かな光りを欲する時は、ほんの踊手ばかりが見えるか、見えぬかの様に照らすのです。衣裳も古希臘の色彩の淡いものを着け、凡てが弱い柔かい、見てゐて『自分達の生立といふものは恁麼 [こんな] ものか知らん』と、思はせらるゝ程単一に、純粋に、自然をまじまじと見せつけてゐるのです。勿論パヴロヴァの如く足の爪先で立つとなどゝいふ、そんな不自然な事はしないのですから、何処までも落ち着いた、不断着のまゝで他所へも行くが何処を見ても、さつぱりした、厭や味のない、それでゐて隙も無い、ありのまゝだ、といふ処が堪まらなくいゝ心持ちを与へるのです。落ちつかせるのです。
斎藤はイザドラの主張が「自然に還れ」にあるとまず総括したうえで、彼女の「舞台面には決して強い色彩や明るい光線を用ゐません」とその特質を言い当てる。さすがに帰国後は自ら舞台美術を手がけるだけあって、斎藤の観察眼はまず舞台設計や照明法へと注がれ、「何時でも灰色の幕を柔らかに三方に垂れてゐる」こと、ショパンの夜想曲など「月光の光りを欲する時」には舞台の照明が抑えられ、「ほんの踊手ばかりが見えるか、見えぬかの様に照らす」工夫がなされたと目敏く指摘する。「衣裳も古希臘の色彩の淡いもの」をまとうイザドラ自身の姿と相俟って、舞台の「凡てが弱い柔かい」色と光で統一され、そこから「単一に、純粋に、自然をまじまじと見せつけてゐる」という印象がもたらされた。
「凡てが自然であれ」とはイザドラの舞踊の本質をなす姿勢であり、斎藤にとってそれはアンナ・パヴロワに代表されるバレエの対極をなす。イザドラは「勿論パヴロヴァの如く足の爪先で立つとなどゝいふ、そんな不自然な事はしないのです」。このようにイザドラとパヴロワ(乃至はロシア舞踊)を「自然(自発的)」対「不自然(人為的)」として対比的に論ずる点で、斎藤の立場は「少くとも彼女の中には、ロシャン・バレーの中に巣食うてゐる妙な形とか、低級な禽獣模倣とかの分子を見出す事が出来ません」とイザドラを称揚する山田や、「私はパブロバーよりもダンカンの舞が好きです」と率直に表明する伊藤のそれと、基本的に一致したものといえよう。自然であることに立脚するイザドラの舞踊は、「さつぱりした、厭や味のない、それでゐて隙も無い、ありのまゝだ、といふ処が堪まらなくいゝ心持ちを与へ」、観る者の精神を「落ちつかせる」。
斎藤はさらにイザドラの舞踊の現代的な意義についても言及する。
イサドラ、ダンカンの芸術は、現今の複雑になり、刺戟が多くなり、神経過敏になつた社会に、『もう少し落ちついて自然を御覧なさい。』と静かにして威厳のある声で警告してゐる言葉に聞えるのです。
複雑に入り組み、刺激に満ちた喧噪の時代だからこそ、古代に範を求め、「自然に還れ」と身をもって訴える彼女の「静かにして威厳のある声」が意味深長に響く。そこに斎藤は一つの啓示を感じ取ったのである。
三日間のベルリン公演を無事に終え、愛児ディアドリーとパトリックとの再会を果たしたイザドラは、子供たちと連れだってパリ郊外ヌイイの館へと帰還した。その後、3月後半から4月中旬にかけて、パリのトロカデロ座とシャトレ座でガブリエル・ピエルネ指揮のコロンヌ管弦楽団と共演し、グルックの『アウリスのイフィゲニア』『オルフェオとエウリディーチェ』(いずれも舞踊用の抜粋)、ブラームスとシューベルトの円舞曲などを踊った。ベルリンの舞台と同様、これらの公演にはダルムシュタットの舞踊学校から女生徒数名が賛助出演している。
そして運命の4月19日がやってくる。
イザドラの子供たちを乗せた自動車がセーヌ川に転落し、二人とも溺死してしまった。最愛の娘と息子を同時に喪った母親の心痛は察するに余りあろう。衝撃的なニュースは直ちに報道され、ベルリンの日本人たちの許にまで届いた。満洲鉄道社員として同地に滞在していた歌人の平野萬里は偶然カフェで手にした新聞で悲報に接し、自ら同人である東京の『スバル』誌に書き送った。わずか数行の短信ながら、記述からは平野もまたイザドラのベルリン公演を観ていたことが知れる。【註114】
△カフエエでル・マタンを読むとイサドラ・ダンカンの名が目についた。ダンカン、ダンカン。私が伯林へ来て費した最も貴重な時間は旅興行のダンカンを見ることの出来た一夜でなければならなかつた。遣る瀬なき人間のあこがれ、もだえ、なげき、悔ひ、俄にこみあげるうれしさの勝鬨、高まる心、おさへかねたるもの欲しさ、シヨパンの夜の曲が舞台の薄明に織り出した真白な希臘模様の悲しくも痛ましかつたこと。私は巴里人の幸福を羨んだ。その時それから幾干もない日に彼の女の二人の小供が自動車と一緒にセイヌに落ちて死んだといふ新聞を読まうとは誰も思はなかつた。
さすがに歌人だけあって、平野は「遣る瀬なき人間のあこがれ、もだえ、なげき、悔ひ、俄にこみあげるうれしさの勝鬨、高まる心、おさへかねたるもの欲しさ」とイザドラの印象を巧みに言語化するとともに、「シヨパンの夜の曲が舞台の薄明に織り出した真白な希臘模様の悲しくも痛ましかつたこと」という舞台の残影を、届いたばかりの悲報とそっと重ね合わせている。
この悲劇については、山田と斎藤もそれぞれ回想で遠慮がちに短く触れている。斎藤の文章から引いておこう。【註115】
我が愛慕する美くしき人イサドラ、ダンカンよ。[……] ダンカンは三歳の女児と、小学校に通ふ女児の二人を持つてゐました。何時もの様に女中が小さな子供を連れて、学校帰りをお迎ひに行つたのです。其帰るさ、自働車の運転手の粗忽から自働車諸共、巴里のセイヌ河にはまつて沈んで了つたのです。いくら手を尽くしても自働車の窓はどうしても開かなかつたと云ひます。そのため女中と三人、が、無惨にも溺死して了つたのです。
こうしてベルリンの日本人たちは期せずして、悲劇のヒロインとなる寸前の、絶頂期にある幸福なイザドラの最後の目撃者となったのである。
【註】
103. 山田耕作「イサドラ・ダンカン女史」275頁(原文は総ルビ)。
104. 山田耕作「ブルッフ氏とダンカン夫人 親しく会つた海外芸術家の印象(八)」18頁(原文は総ルビ)。
105. 小山内薫「露西亜の年越し」6、17頁。「私は唯自分達の仕事としてゐる「自由劇場」の記録と少し計りの贈り物とに添へて、演劇を熱愛する日本の一青年があなたの劇場を見るのを主な目的にして遙々遠い旅をして来たといふ程な簡単な手紙を届けたばかりでした」。「私共が『犬』といふ外題で日本でやつた『求婚』の写真に少し許りの贈り物を添へて届けた時に、夫人は直ぐと英文の手紙で返事を呉れて、一遍芝居へ尋ねて来いと言つて呉れたのです」。
106. 小山内薫「露西亜の年越し」19、31~32頁。
107. スタニスラフスキー『芸術におけるわが生涯』(下)99~100頁。
108. 伊藤道郎「舞踊界の人々」『アメリカ』1940(昭和一五)年、羽田書店、230~31頁。
109. 伊藤道郎「伯林より」82頁。
110. 伊藤道郎「伯林より」84~86頁。以下にその全文(ドイツ語)を掲載する。
Abschieds-Abend
Chopin□Brahms□Schubert□Fünf Gedichte von Richard Wagner
Getanz von
ISADORA DUNCAN
Programm
Chopin:
Nocturne B-moll ……………………………… Hener Skene
〃 Cis-moll ……………………………
〃 Es-dur ………………………………
Etude Es-moll …………………………………
〃 F-moll ……………………………………
〃 As-dur ……………………………………
Impromptu As-dur ……………………………
Prelude E-dur ………………………………… Isadora Duncan
〃 A-dur …………………………………
〃 E-moll …………………………………
〃 A-moll …………………………………
〃 C-moll …………………………………
Polonaise C-moll ………………………………
Mazurka C-dur, Dis-moll, H-moll, D-moll…
Walzer Ges-dur, Des-dur ……………………
(PAUSE)
Fünf Lieder von Richard Wagner:
1. Der Engel(天使) ……………
2. Stehe Still(沈黙) ……………
3. Schmerzen(悲痛) ………… Isadora Duncan
4. Im Treibhaus(温室)………
5. Träume(幻想)………………
Brahms:
Walzer ……………………… Isadora Duncan
Schubert:
Walzer ……………………… Isadora Duncan
〃 ………………………… Die Schulerinnen ○
Marche Militaire …………… Isadora Duncan und Die Schulerinnen ○
Moment Musical …………… Isadora Duncan
伊藤はこのあとに次のように付け加えている。
「以上がダンカンのプログラムです。ワグナーの Der Engel と Schmerzen は最も感じました。○の付いて居るのは、ダンカンが育成して居る娘等が踊りました。当日は終りましてから余りアンコールが、はげしいので二度も舞りました」。
111. ここに挙げたワーグナーの四演目は1911年2月15日、ニューヨークのカーネギー・ホールでのアメリカ公演初日のプログラムにも含まれていた。共演はウォルター・ダムロッシュ指揮のニューヨーク交響楽団。フレドリカ・ブレア『踊るヴィーナス イサドラ・ダンカンの生涯』215頁。
112. 斎藤佳三の鑑賞日を他の三人と同じ1913年3月12日と推定する論拠については [註99] を参照。
113. 斎藤佳三「欧洲で見た踊りの印象」24~25頁(原文は総ルビ)。
114. 平野萬里「伯林劇信」『スバル』54号、1913(大正二)年6月、188頁。ちなみに、平野がイザドラを鑑賞したのは他の四人の日本人とは別の公演日である。彼は3月12日にはレッシング座でイプセンの『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』を観劇していた。小山内薫「レツシング座で見た芝居」7頁を参照。
115. 斎藤佳三「欧洲で見た踊りの印象」25頁。