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連載「バレエ・リュスと日本人たち」 Ballets Russes et les japonais
第12回 嘘から出た真実
沼辺 信一

01/April/2010


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レオン・バクスト『牧神に扮したニジンスキー』
バレエ・リュス公式プログラム表紙
1912年5~6月、パリ、シャトレ座

パリの街を雨に濡れながら、あてどもなく歩き廻った
ヨーロッパ滞在中たまたまバレエ・リュスにめぐり逢った日本人たちは、実見した舞台のありさまやそこから受けた印象をさまざまに記録しているが、今回ここで紹介する文章ほどに委曲を尽くして鑑賞体験を書き留めた回想はほとんど例をみない。そこには生々しい臨場感が脈打ち、鋭い観察眼が随所に光っていて、断片的な抜粋が憚られる。いささか長大な引用に及ぶのを承知で、煩を厭わず以下にその全文を書き写すことにしよう。

巴里の春の夜小雨がヒソヒソと降る夜、漆の様に黒光りに濡れた街路は商舗や街燈の光りが映つて金を流した様だ。其の上を走る自動車や馬車がぞくぞくと劇場の玄関に流行の粋を着飾つた紳士淑女を送り込んで来る。こゝはデヱゲレフ・バレー・ルスの上演されるシャトレ劇場である。その夜の出し物は『牧神の午後』作曲ドビッシイ・舞台装置バックスト・振附ニジンスキイと『ペトルシュカ』作曲ストラビンスキイ・舞台装置ブノア・振附フォキン・である。私の日本から憧がれて待ちに待つたバレー・ルスが今数十分の内に私の目前に現れようとして居るのだ、私の周囲にはパリジァンが小鳥の様に囀つて居る。私はまるで夢見る様な気持で体がふるへてゐた。
やがて客席が徐々に暗くなるとバレー・ルスの管絃楽指揮者として有名なピヱルモニウト [=ピエール・モントゥー] のバトンで音楽と共に幕が開いて行く。舞台一面に深山幽谷・夏の日の光りが強く輝り返つて岩なぞが白く光つて見える。風の無い暑い日中だ、森蔭の小高い丘の上に牧神がものうげに寝ころんで笛を吹いて居る。ニジンスキイが牧神に扮してゐるのだ。頭に小さな角が生え白い裸身の肩胸腰股に大きな茶褐色の斑点がある半獣身だ。彼は頭の小さな頸の太い腰の細い筋肉の逞しい股の持主だ。ドビッシイの印象派的な音楽の流れにのつて彼が動くと彼は人か獣か? まるで豹の様だ。そこへ丁度ギリシアの水瓶に画かれた様な衣裳を附けた森のニンフと水の精が三人横向きに爪先きで歩いては休み歩いては休みして静かに現れる。
稍〻しばらくして一人の精が現れて、これに加はるニンフの数は更に増して四人三人とグルップになつてそこに並ぶ。ニンフ等は無心無表情で常に造形的な姿勢を崩さない、なにか不気味な雰囲気を醸し出して居る。牧神は見知らぬニンフや精の出現に微な興味を覚えて丘から降りて彼等の傍に歩み寄る。牧神とニンフ等の間に形によつての黙劇が始められる。然し両者は常に造形的な姿勢を崩さない。そしてその顔にはまつたく何の表情も見られない。
牧神は本能の閃きに従つてニンフにいひ寄らうとするが、ニンフ達はそれを顧みずに、皆かなたに去る。彼等の内の最も美しいのが最後まで残つてはゐたが、それも亦やがて音もなく逃げ去る。唯一人残された牧神は己の心を乱した美しい彼等が何者であつたらうと考へ始める。彼はニンフが落して行つたスカァフを見つけてそれを拾ひ上げ、牧神は再び丘に登る、そしてそのスカァフを地上に敷いて彼は其の上によこたはり、大自然に溶けこみ眠りに落ちてゆく。そして静かに幕が降りた。
私は何か幽玄界に連れて行かれ、人間の見てはならぬものを見せてもらつた様な感謝の気持で胸が一ぱいになつてゐた、何と言ふすばらしい舞踊詩なんだろうと思つた。
客席が明るくなつて私は再び現実の世界に連れもどされた。
休憩時間に私はロビーに出て見ると紳士は皆燕尾服かタキシィド、淑女も色取々な夜会服に指にも腕にも耳にも宝石で飾られた人人で埋められ、彼等は和気藹々と語り合つて居る、この様な人達が巴里の社交界の人々なのだらう。現実の世界とは言へこの様な雰囲気にひたるのは私に取つて始めての体験で全く別世界の様な気がした。
この牧神の午後は舞踊家として秀でた天分を持つニジンスキイが振附師としての第一の作品でこれが初演された時には、ニジンスキイの示した余りに大胆な余りに淫らな或る身振りがさすがの巴里でも大問題となつて悪評好評こもごも大センセイションを起した相である。ベルが鳴つて、座席に返ると、第二は「ペトルシュカ」だ。幕が開くと、見世物小屋や月並の芝居小屋なぞある広場に多くの群集が集つてる縁日の場面である。そこに魔法使ひが現れて見世物に使はれて居る。ペトルシュカ、彼の恋仇黒坊のモーア及び踊り子の三つの人形が生命を与へられ、そして彼等の恋愛悲劇が起つてペトルシュカは黒坊のモーアに殺されるといふ筋だ。その夜の配役はニジンスキイのペトルシュカ、ボルムの黒坊モーア、カルサビナの踊り子であつた。
私はペトルシュカに扮したニジンスキイの卓絶した表現に心から敬服した。劇曲的なアクションと音楽と身振りとによつて判然と支配されてゐながら彼がペトルシュカの権化そのものとなつた完全さは実に驚く可きものであつた。牧神に扮したニジンスキイとペトルシュカに扮したニジンスキイがどう考へても同一の人とは信じられない程その役々によつてのキャラクタリゼイションが完全なものであつた。
幕が降りると観客は総立ちとなり、ブラボウ! ブラボウ! とさけんで拍手と共に狂喜して居る。ニジンスキイ、カルサビナ、ボルムは何度カアテンコールされたか私には数へきれなかつた、私は興奮の絶頂に達してゐた。体中熱ばんでゐる、こんな興奮も生れて初めての体験だ。群衆と一緒に劇場を出た。外は小雨が降つてゐる。熱ばんだ顔に小雨の当るのが気持がよい。殺されて霊のぬけた人形のペトルシュカの顔が私の眼裏に焼き附けられてゐて取れない。
カッフヱに入り、アプサンを飲んだが駄目だ!
カッフヱの雑音がいらいらさせる。私はカッフヱを飛び出して暗い巴里の街を雨に濡れながらあてどもなく歩き廻つた。
私は生れてから、かつて、こんな立派な綜合された舞台芸術を見た事も考へた事もなかつた。
ニジンスキイ! 彼は神か人か魔物か? 私の頭の中には牧神とペトルシュカが、かはるがはるに飛躍して消えない。私は何時の間にか泣きながら暗い街を歩いてゐた。ホテルにたどり着いた時は濡れ鼠の様にびしよ濡れだつた。何処を何う歩いたか足がいたむ。然し私は部屋に入つて寝る気がしない。暗い静かなロビーのソファに腰をかけて、驚愕と喜びと不安が、ごつちやになつてまだ興奮が醒めない。芸術の都巴里に住む幸福を心から感謝した。
──いつの間に寝たのだらう。──ホテルの掃除女に起された時には私はロビーのソファの上に寝てゐた、そして夜が白々と明けてゐた。
【註1】

手に取れるような鮮明さで綴られたこの回想は1950(昭和二五)年7月、創刊直後の『芸術新潮』誌に掲載された「狂へるニジンスキイ」と題する寄稿文の中核部分をなすものである。表題からも明らかなように、これは同年4月8日に急逝したワツラフ・ニジンスキーの追悼記事として、編集部の依頼でおそらく短期間のうちに執筆されたものとおぼしい。それにしては修辞も文飾もよく整えられ、ニジンスキー体験の一部始終がまるで昨日の出来事のごとく鮮やかに蘇るのに驚かされる。
冒頭ほどなく「こゝはデヱゲレフ・バレー・ルスの上演されるシャトレ劇場である」と記されているとおり、これは1912年の5月から6月にかけてパリで催されたバレエ・リュス公演のほぼ四十年後における回想である。同じ公演に出くわした画家の石井柏亭がリアルタイムで書き残した鑑賞記録については、すでに詳しく紹介したことがある(連載第1、2回)。初興行から三年目を迎えた今回のパリ公演では、一座の花形ワツラフ・ニジンスキーが初めて振付も手がけた新作『牧神の午後』を自ら主演するのが大きな話題となった。この筆者もまた柏亭と同様、その歴史的な現場に居合わせた幸運な一人だったことになる。
バレエ・リュス上演記録によれば、このパリ公演でニジンスキーが『牧神の午後』を踊ったのは計八回、すなわち5月29日、31日、6月1日、3日、5日、7日、8日、10日だった。当初は四回の上演が予定されたが、もう一つの新作『ダフニスとクロエ』の初演が順延されたことを理由に、ディアギレフが急遽『牧神』の上演回数を増やした経緯についてはすでに詳述したとおりである。改めてその八日間の全演目を一覧しておこう。

●5月29日、31日、6月1日、3日
『牧神の午後』(ドビュッシー作曲/ニジンスキー振付)[初演]
『薔薇の精』(ウェーバー作曲/フォーキン振付)
『青い神』(アーン作曲/コクトー台本/フォーキン振付)
『火の鳥』(ストラヴィンスキー作曲/フォーキン振付)
●6月5日、7日
『青い神』
『シェエラザード』(リムスキー=コルサコフ作曲/フォーキン振付)
『薔薇の精』
『牧神の午後』
●6月8日、10日
『牧神の午後』
『シェエラザード』
『ダフニスとクロエ』(ラヴェル作曲/フォーキン振付)[初演]
【註2】

ここでわれわれは不可解な事実に気づかされる。八日間のプログラム中に『牧神』と『ペトルーシュカ』を組み合わせた例が見当たらない。前年6月にシャトレ座で初演されたバレエ『ペトルーシュカ』はこのパリ公演でも再演されているが、その上演日は5月20、22、24、25日に限られ、しかも併演されたのは『タマーラ』、『ナルキッソス』、歌劇『イーゴリ公』の「ポロヴェツ人の踊り」だった。『牧神』と組み合わせた上演はただの一回もなかったのだ。
筆者は『牧神の午後』と『ペトルーシュカ』を同じ日に休憩を挟んで立て続けに観たと証言し、「牧神に扮したニジンスキイとペトルシュカに扮したニジンスキイがどう考へても同一の人とは信じられない程その役々によつてのキャラクタリゼイションが完全なものであつた」と、続けざまに異なる役柄を演じ分けたニジンスキーの能力に驚嘆している。四十年近い歳月を経て記憶が入り乱れ、別々に観た二つの演目がいつしか同日の体験として定着してしまったのだろうか。
 


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(左)ニューヨーク公演で『牧神の午後』を演ずるニジンスキー(1916年)撮影:Karl Struss
(右)「バレエ=アンティーム」公演の紹介記事より
  中央:伊藤道郎とテュール・リンダール(手前) 左右:ロシャナーラ
  Musical America 誌 1917年9月1日号

私はプログラムを見ただけで興奮してしまった
そろそろ種明かしをしたほうがよさそうだ。引用文の筆者は伊藤道郎である。しかもこのニジンスキー回想は一から十まで悉く偽りなのである。
結論から述べるなら、1912年初夏に伊藤がパリでバレエ・リュス公演を観た可能性はゼロに等しい。なぜなら彼はその頃まだ東京にいて、創設直後の帝国劇場歌劇部の一員として創作歌劇『釈迦』(ハインリヒ・ヴェルクマイスター作曲/松居松葉台本)上演に加わっていたからである。【註3】当時の状況については、ほかならぬ伊藤自身が別の文章で証言している。

僕は音楽学校入学準備として三浦環さんについて声楽を学んだ。当時、帝劇オペラの第一回「熊野」が上演されたりして、三浦さんはその舞台で活躍していた。第二回には、当時音楽学校のチェロの教授だつたウェルク・マイスター作曲の「釈迦」が上演されることになつて、コーラス・ボーイが沢山出ることになつた。それで僕にも、そのコーラスに加わつて出ないかという話があつた。これが僕の初舞台である。好奇心半分で僕は舞台に立つた。石井漠だの、今は映画俳優の小島洋々だのと一列に並んで歌つた。いわば、これがオペラへの病みつきというものだろう。オペラ歌手こそ、わが人生であると、僕はひとりで決めてしまつた。レコードで有名なオペラ歌手の歌いぶりを聞いたりして、その思いはますますつのるばかりだつた。それならば上野の音楽学校よりも、本場へ行つて勉強したい──と、父にその許しを願うようなことになつた。【註4】

1912(明治四五)年の6月1日から23日まで連日『釈迦』の舞台に合唱隊の一員として登場していた伊藤には、同じ時期にシャトレ座の客席に身を置くことも、小雨そぼ降るパリの夜道をさまようことも、物理的にあり得ないのである。
オペラ歌手を志す伊藤は両親の許しを得て留学の旅に出た。マルセイユ、パリを経て目的地ベルリンに到着したのは同年12月28日。ちょうどその一週間前、この街でバレエ・リュス公演は千秋楽を迎えていた。劇場に通いつめた山田耕筰からニジンスキーの『牧神の午後』の素晴らしさを吹聴された彼は、タッチの差で見逃した悔しさにさぞかし歯噛みしたことだろう。
こうしてベルリン(~1913年6月初旬)とライプツィヒ(~同年8月初旬)にしばらく滞在した伊藤は、ほどなく声楽から舞踊へと方向転換を果たし、作曲家ジャック=ダルクローズが主宰する「音楽・リズム教育施設 Bildungsanstalt für Musik und Rhythmus」(通称「ダルクローズ学院」)に入学してヘレラウ(ドレスデン郊外)で1914年夏まで特異な「リトミック教育」の修練に励んだが、第一次大戦の勃発に伴い同年8月やむなくロンドンへと疎開した。【註5】
以上のような経緯から、伊藤は1912年初夏のパリ公演は無論のこと、同年末のベルリン公演も見逃し、それ以後もニジンスキーの舞台を観る機会のないまま、一年半をドイツ国内で過ごしたことがわかる。その間にニジンスキーはバレエ・リュス公演で自ら振付した『遊戯』(ドビュッシー作曲)と『春の祭典』(ストラヴィンスキー作曲)の二作をパリとロンドンで初演したあと、南米巡業中に電撃結婚し、ディアギレフの怒りを買って直ちにバレエ・リュスを解雇されてしまう(1913年9月)。【註6】それ以降ヨーロッパでニジンスキーが『牧神の午後』や『ペトルーシュカ』を踊るチャンスは二度と訪れなかった。
ロンドンに逃れてから伊藤道郎の人生は急展開を遂げることになる。バレエ・リュスの有力な後援者でニジンスキーとも親交の厚いオットライン・モレル夫人の知遇を得て、異色の舞踊家としてたちまち社交界で脚光を浴びた。戦時中とあってバレエ・リュスのロンドン来訪がしばらく途絶えていたことも伊藤にとって幸いしたのであろう。1916年4月には詩人のエズラ・パウンド、ウィリアム・バトラー・イェイツらとの交友から生まれた舞踊劇『鷹の井戸 At the Hawk’s Well』が試演され、日本古来の能に倣った作劇法と相俟って、振付と主役を兼ねたミチオ・イトウの名はロンドン芸術界に広く知られるに至る。【註7】
その後アメリカに渡った伊藤は、ニューヨークを拠点として数多くのリサイタルを催し、1917年にバレエ・リュス出身の舞踊家アドルフ・ボリム(ボルム)、インド舞踊のロシャナーラらと巡業舞踊団「バレエ=アンティーム Ballets-Intime」を結成するなど華々しい活躍をみせ、両大戦間のアメリカを舞台に舞踊家としての地歩を着実に築いていく。
伊藤が遂に念願のニジンスキーの実演に接したのは、渡米直後の1916年10月のことだと思われる。戦時下のブダペストに軟禁中だったニジンスキーがようやく解放されてアメリカ巡業中のバレエ・リュスに合流し、ニューヨークのマンハッタン歌劇場で彼を座長とする一連の公演が催された(ディアギレフは帰欧して不在だった)。ニジンスキーは三年ぶりに『牧神の午後』を踊り、生涯最後の振付作品『ティル・オイレンシュピーゲル』(リヒャルト・シュトラウス作曲)の初演を果たしている。併せて『ペトルーシュカ』『薔薇の精』『謝肉祭』『シェエラザード』などの旧作群もリヴァイヴァルされたこの貴重な機会に、伊藤は必ずや何度か足を運んだはずである。【註8】先に引用した文章で『牧神』と『ペトルーシュカ』の舞台を臨場感たっぷりに「回想」するのに、このニューヨーク公演での鑑賞体験が大いに与って力があったのではなかろうか。

1931(昭和六)年と1939~40(昭和一四~一五)年に一時帰国し、第二次大戦中の1943(昭和一八)年からは日本に活動の場を移した伊藤道郎は、求めに応じてしばしば自らの波乱に富んだ半生を書き綴っている。功成り名遂げた舞踊家として赫々たるキャリアを跡づけるにあたって、彼はその端緒に似つかわしいドラマティックな挿話が必要だと感じたに違いない。オペラ歌手から舞踊家へと大きく舵を切る際に、若き日の伊藤はベルリンでの指南役だった先輩の山田耕筰から有益な助言を授かったはずだが、【註9】なぜかそうした経緯には全く口を噤んだまま、おそらくそれに代わるべき転身の契機として、ありもしない「ニジンスキーとの遭遇」のエピソードが「捏造」されたのであろう。
それにしても、そのニジンスキー体験が彼の滞在したベルリンやライプツィヒでなく、1912年のパリのシャトレ座での出来事として物語られるのはどうしてなのか。彼自身ほとんど足を踏み入れることのなかったパリが、ここでわざわざ引き合いに出される真意は一体どこにあるのだろうか。
その謎を解く鍵は、先に長々と引用した伊藤の追悼文「狂へるニジンスキイ」のすぐ直前の一節に隠されている。

私が最初にニジンスキイの名を知つたのは明治の末期私が歌劇の歌手を目ざして声楽の勉強に渡米 [ママ] する事が定つた時、丁度飛行家の滋野男爵が巴里から帰つて来られたので色々とあちらの様子を伺ふべく滋野氏を訪問した時に巴里から持つて帰られたデヱゲレフ・バレー・ルスのスブニール・プログラムを見せて頂いた。そのプログラムは実に豪華版で極彩色の舞台装置や衣裳のデサンが幾枚もあつた。しかも其の画家がバックストやブノアの画かれたもの、それにニジンスキイやカルサビナ・ボルム等が色々の役に扮した写真が沢山あつた。私はプログラムを見たゞけで興奮して仕まつた。そしてお話によるとバレー・ルスは今巴里で大人気で巴里人はこのバレーに陶酔してまるで気違ひの様な騒ぎだ、ことに男性舞踊家のニジンスキイは一人で巴里の人気を浚つてゐると話された。近い未来にその本物を見る事が出来ると思つて私は胸をとゞろかした事を覚えて居る。

ドイツ留学に旅立つ前から、すでに東京でバレエ・リュスのパリ公演のプログラムを手にし、ニジンスキーの評判を伝え聞いていたというのである。
最新のパリ情報をもたらしたこの新帰朝者「飛行家の滋野男爵」とは、黎明期の日本航空史に勇名を馳せた「バロン滋野」こと滋野清武(1882~1924)である。若くして父を喪い男爵位を継いだ滋野はまず軍人を目指すが挫折し、たまたま妹たちの家庭教師として同家を訪れた四歳年下の山田耕筰と知り合い、その感化により吹奏楽を志し東京音楽学校に入学した。【註10】山田の二年後輩として在学中は熱心にコルネット演奏に励むが、卒業後ほどなく新婚の妻を失った痛手から心機一転、飛行機操縦を学ぶため1910(明治四三)年フランスに渡った。【註11】
パリに寓居を構えた滋野は手始めにまず自動車運転の免許を取得し、銀色の自家用車で郊外の飛行機学校まで通学しながら熱心に操縦技術の習得に努めた。危険を伴う飛行訓練と並行して専用機の設計にも取り組み、小型ながら堅牢な構造の新型複葉機を完成させ、亡妻・和香子の名に因み「わか鳥」と命名した。1912年1月にはパリ郊外イシー・レ・ムリノー飛行場で愛機を操縦して飛行試験に臨み、晴れて正式な万国飛行免状を取得している。飛行時間はすでに累計百時間を上回り、彼は当時の日本人飛行家としては例をみない高度な技術と経験を手中に収めていた。
その一方で、滋野はもう一つの情熱の対象である音楽も忘れてはいない。多忙な飛行訓練の合間を縫って自家用車でパリ市内の劇場まで赴き、もっぱらオペラを中心に夥しい数の実演に接している。その豊富な鑑賞体験の一端は、折に触れて東京の母校の学友会宛てに書き送られ、月刊会報誌『音楽』に掲載された。滋野の「巴里通信」は、ほぼ時を同じくして山田耕筰が同誌に寄稿したベルリン便りと並んで、音楽青年の海外体験を垣間見るうえで貴重な史料といえよう。滋野自らの述懐によれば、二年間のパリ滞在中「オペラ [座] オペラ、コミーク座とで約六十遍ほど行きました」といい、「オペラ座の人はあまり行くのでもう友達の様に思つてゐて、すぐ握手をしてボンソワール、コンマンタレーブーなどと云ひ、暫らく行かないと旅行でもしてゐたかなどときく位です。それも其筈、『フオースト』、『タンホイゼル』『ローエングリン』等は各十度位づゝも行つてゐるのですもの【註12】と、こともなげに豪語している。
飛行免状を得て帰国を決意し、日本に送るため「わか鳥」号を解体してしまうともはや訓練飛行もなく、出発準備に取りかかりながら名残惜しさも手伝ってか、5月に入ると滋野の劇場通いにいっそう拍車がかかった様子である。まず、ちょうどパリを訪れた東京音楽学校の湯原元一校長を案内して、5月7日にオペラ=コミック座でモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』(レイナルド・アーン指揮)を、翌8日にオペラ座でマスネの新作歌劇『ローマ Roma』をそれぞれ鑑賞したほか、公演日は不明だがオペラ=コミック座でグルックの歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』とモーツァルトのバレエ『レ・プティ・リアン』も観た。【註13】さらに5月26日には自家用車に画家の石井柏亭らを乗せてムーラン・ルージュへと赴き、『ニューヨークの美女 La Belle de New-York』なるオペレッタを愉しんだことが柏亭のパリ日誌「仏京一個月」から知られる。【註14】
1912年パリのシャトレ座で催されたバレエ・リュス公演の上演日程は5月13日から6月10日まで──まさしくこの時期に該当するのである。
 


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(上)複葉機「わか鳥」号に乗った滋野清武(1911/12年、イシー・レ・ムリノー飛行場にて)
  出典:平木國夫『バロン滋野の生涯 日仏のはざまを駆けた飛行家』
(下)ベルリンで滋野清武を迎えた留学生たち(1912年6月下旬)
  左から:小倉末子(丸い写真)、萩原英一、多久寅、山田耕筰、滋野清武、服部駟郎次
  出典:『音楽』1912(大正元)年11月号

それは実に実に深刻なものであった。あの深い、そして強い印象──
1912年7月の帰国後、東京で伊藤道郎にプログラムを見せながらその印象を物語ったことから明らかなように、滋野清武はシャトレ座でバレエ・リュス公演を確かに観ている。ただし、その直接の鑑賞記録は残されておらず、公演日や演目までは判明しない。5月21日付で母校の学友会宛てに最後のパリ通信「イッシー、レ、ムリノーより」をしたためると、さすがに帰国の準備作業に忙殺されたのだろう、その後は便りが途絶えてしまったからである。察するに5月29日マルセイユ港から「わか鳥」号の部材や自家用車などの荷物を送り出して身軽になったあとで、滋野は心ゆくまでニジンスキーの舞台を堪能したのではないか。そうだとすれば、彼が足を運んだ公演日は以下の日程のなかに含まれることになろう。

●5月31日、6月1日、3日
『牧神の午後』『薔薇の精』『青い神』『火の鳥』
●6月5日、7日
『青い神』『シェエラザード』『薔薇の精』『牧神の午後』
●6月8日、10日
『牧神の午後』『シェエラザード』『ダフニスとクロエ』


いずれにせよ、滋野がシャトレ座でニジンスキーの踊る『牧神の午後』を目にしたことだけはどうやら確実らしい。
彼がバレエ・リュスの舞台から拭いがたい印象を得ていたことは、それから二年後の1914年、再び渡仏して6月6日にパリのオペラ座でバレエ・リュスと再会した際に書き綴った「バレー リュース(露西亜舞踏)の堕落」なる一文から辛うじて推察できる。その鑑賞記録の全体については後日また検討することにして、ここでは二年前の1912年のシャトレ座公演に言及しながら現今のバレエ・リュスの「堕落」ぶりを慨嘆する箇所のみを引く。

[……] 自分は残念ながらバレーリュースは [……] 既に末期に近づけりと云はざるを得ない。たしかに彼は堕落したのである。云ひ換ふれば、巴里化したのである。殆普通のバレーと撰ぶ処はない様である。バレーリュースの特長は殆ど消滅して居る。僅に其の大胆なる背景とコステュームと、そして極く稀に彼等特有の手つき、足振りを見る事が出来るのと、尚ほ其の主なる舞者が素足で肉色股引を着せざる事との他は、何物も得られないのである、是を前に自分が見た時即ち一九一二年の五月のに比して実に雲泥の差がある。僅に二年の間に斯くも巴里化したか、斯くも堕落したるかと思ふと自分は実に残念に堪えぬ、嗚呼二年前のバレーリュースがもう一度見せてもらひ度い、夫は実に実に深刻なものであつた。あの様な深い、而して強い印象は今年のバレーリュースに於ては薬にしたくも得られないのである。若し此のまゝで進むならば一九一五、一六年あたりは、全く平凡なるものとなり終るであらう、昨夜のプログラムに於て三時間の中に所謂バレーリュユース [ママ] の型を見たるは僅に二度しかない、殊に中幕のミダーの如きは、全く不愉快に終つたのである。什うしても自分は、バレーリュースが堕落したものと思ふ。然し其個人個人の技術としてはさすがに敬服嗟嘆せしむるものが数々あつた。唯自分は斯くしてバレーリュースの特有する而してあの深刻な型が漸次消えて行く事を甚だ遺憾に思ふものである。【註15】

この日、滋野は『クレオパトラ』『ミダス』『ヨセフ伝説』(あとの二つは新作)の三演目に接したのだが、その豪勢な舞台美術や個々の踊り手の技術には感心したものの、二年前に強く印象づけられた「バレーリュースの特長」「バレーリュースの特有する而してあの深刻な型」がすっかり影を潜め、「殆普通のバレーと撰ぶ処はない様である」と彼は落胆を隠さない。それに比べて、「一九一二年の五月」(とここでは記される)に観た舞台は「実に実に深刻なものであつた」が、その「深い、而して強い印象」も今や失われつつあるのだ、「嗚呼二年前のバレーリュースがもう一度見せてもらひ度い」と彼は強い調子で憤っている。
こうした失望と憤懣はひとり滋野だけの感想に留まらず、おそらく客席にいた多くのバレエ・リュス愛好家の共有するところだったに違いない。突然のニジンスキー退団によって生じた空隙は他の誰によっても埋め合わせることができず、呼び戻されたミハイル・フォーキン振付の新作はいずれも急拵えの誹りを免れなかった。『ヨセフ伝説』(シュトラウス作曲)で主役に扮した新人レオニード・ミャーシン(マシーン)には到底ニジンスキーの代役は務まらなかったのである。
ともあれ、1912年のバレエ・リュス公演を観たとき滋野が言葉に尽くせないほどの深甚な感銘を胸に刻んだことだけは、二年後に別の鑑賞体験を記した文章からも窺い知ることができよう。
本稿の冒頭で引用した伊藤道郎による「ニジンスキー回想」が一から十まですべて偽りであると先に断定した。1912年のパリに居合わせたはずのない伊藤の言葉である限り、確かにそれは紛れもない捏造証言であり、真っ赤な嘘にほかならないのだが、彼はその核になったはずの体験談を滋野清武からじかに聞かされている。その一事を思い起こすならば、そこにはなお幾許かの「真実」が含まれはしないかと改めて問い直す必要があるかもしれない。
人間業とは思えないニジンスキーの妙技を目のあたりにして「興奮の絶頂に達し」、「体中熱ばんで」呆然と劇場を後にし、「暗い巴里の街を雨に濡れながらあてどもなく歩き廻つた」のは、実は滋野清武その人だったのではないか。このように想像してみたとき、史料的には無価値な嘘で固めた「回想」も、仄かな真実の光芒を放ち始めるのではなかろうか。

当初は1912年6月初旬の出発を予定していた滋野だが、おそらく準備に手間取ったのであろう(あるいはバレエ・リュス鑑賞にうつつを抜かしていたためか)、やや遅れて6月20日パリを発ち帰国の途についた。自家用機「わか鳥」号や自家用車などの大荷物はすでにマルセイユから船便で送り出してしまったので、身軽になった彼は陸路シベリア鉄道で先回りして日本を目指し、横浜で愛機の到着を待ち受けるという心づもりだったのである。【註16】
翌21日にはベルリンで途中下車した。この地に留学中の東京音楽学校の同窓生たちと旧交を温めるのが目的である。とりわけ兄弟同然の親しい間柄だった山田耕筰との二年ぶりの再会には、さぞかし懐かしさで心が高鳴ったことであろう。遙か後年の自叙伝で、山田は「パリから、その頃日本最初の飛行家として知られた、親友滋野清武の来訪をうけたのもこの年」と素っ気なく(しかも誤って1911年の出来事として)記すばかりだが、【註17】実際にはおそらく自ら駅頭まで出迎え、三、四日間だったと思われる滞在中はシャルロッテンブルクの寓居を宿舎として提供し、昼夜を問わず懐旧談や音楽談義に耽ったことであろう。この思いがけない再会を祝して、山田は同地の同窓生たちに招集をかけ、勢揃いで写真館に赴いて滋野を囲んだ記念写真まで撮影している。【註18】
ベルリンで滋野と山田との間にどんな会話が交わされたかは全く想像の域を出ない。だがこのとき、つい先日パリで見聞したばかりのバレエ・リュス公演について滋野が口を噤んでいたとは到底考えられない。むしろ彼は率先して旅行鞄から豪華なスーヴニール・プログラムを取り出し、帰国後に東京で伊藤道郎に対してそうしたのと同様、パリを席捲したニジンスキーの至芸と、その舞台が醸し出す「実に実に深刻な」「深い、而して強い」印象について、無二の親友に熱っぽく語って聞かせたのではなかったか。
ベルリンの山田耕筰が憑かれた人となってバレエ・リュス公演に日参し、『牧神の午後』上演時に客席で見かけたリヒャルト・シュトラウスの跡を追いながら夜の街をあてどなく彷徨するのは、それからちょうど半年後のことである。



【註】
1. 伊藤道郎「狂へるニジンスキイ」『芸術新潮』1巻7号、1950(昭和二五)年7月、94~96頁。
2. 『牧神の午後』を含む上演プログラムについては、同年の「バレエ・リュス公式プログラム Programme officiel des Ballets Russes, septième saison... Théâtre du Châtelet, mai-juin 1912」に記載された演目一覧のほか、石井柏亭の書き残した鑑賞記録、さらにJean-Michel Nectoux [ed.], L’Après-midi d’un Faune (Edition de la Réunion des musées nationaux, Paris, 1989), p.46 所収の『牧神の午後』上演記録なども勘案して総合的に判断した。
3.千田是也「あとがき──夢と現実」ヘレン・コールドウェル『伊藤道郎 人と芸術』中川鋭之助訳、早川書房、1985(昭和六〇)年、159~60頁。
帝劇における歌劇『釈迦』上演の経緯に関しては以下を参照。増井敬三『日本のオペラ 明治から大正へ』民音音楽資料館、1984(昭和五九)年、179~81頁。
4. 伊藤道郎「世界に踊る」『芸術新潮』6巻7号、1955(昭和三〇)年7月、218~29頁。
5. 千田是也「あとがき──夢と現実」164~84頁。
6. リチャード・バックル『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代』(上)鈴木晶訳、リブロポート、1983(昭和五八)年、289~313頁。
7. ヘレン・コールドウェル『伊藤道郎 人と芸術』44~59頁。
8. Nesta Macdonald: Diaghilev Observed by Critics in England and the United States 1911-1929, Dance Horizons, New York & Dance Books, London, 1975, pp.182-97.
9. 後年の山田耕筰の証言から引いておく。「ミチオはいいバリトンだった。然し、彼の全体が声楽家としてよりは舞踊家にふさわしいと思えたので、私はしきりにそれを力説したものだ。それが原因かどうか知るよしもないが、とにかくミチオはベルリンを去つて、ドレスデン郊外のジャック・ダルクロオズ舞踊研究所へ入つたことはたしかだ」。山田耕筰「ミチオ・イトウのプロファイル」伊藤道郎『美しくなる教室』宝文館、1956(昭和三一)年、序文。
10. 山田耕筰『若き日の狂詩曲』講談社、1951(昭和二六)年、82~83頁。
11. 平木國夫『バロン滋野の生涯 日仏のはざまを駆けた飛行家』文藝春秋、1990(平成二)年、14~34頁。以下に記す滋野に関する情報は、おおむね本書の記述に基づいている。
12. 滋野清武「イッシー、レ、ムリノーより」『音楽』3巻7号、1912(明治四五)年7月、29頁。
13.滋野清武「イッシー、レ、ムリノーより」29頁。演目と劇場名の確認のため該当時期の『コメディア・イリュストレ Comoedia Illustré』誌も参照した。
14. 石井柏亭『欧洲美術遍路』(下)東雲堂書店、1913(大正二)年、184~85頁。柏亭の記す「5月26日」とは日記の執筆日で、観劇は前日だった可能性もある。
15. 滋野清武「バレー リュース(露西亜舞踏)の堕落」『音楽』5巻8号、1914(大正三)年8月、59頁。
16. 『音楽』1912(大正元)年8月号(3巻8号)の「雁の便り」欄(36頁)に、以下の滋野からの短信が掲載されている。
「■巴里 滋野清武氏より
本月二十日巴里出発、伯林に立ち寄り、廿六日モスコー発にて帰朝の途につく考に有之候。六月十八日」。
17. 山田耕筰『若き日の狂詩曲』191頁。
18.その記念写真は『音楽』1912(大正元)年11月号(3巻11号)の巻頭を飾った。同号「雁の便り」欄(43頁)に掲載された山田の手紙には「今日は変つたものを御送り出来ます。滋野君帰朝の途次来伯せられた紀念にと写した写真がそれです」とある。