■今週は久しぶりにフランスの挿絵本が入荷いたしました。ジャン・コクトー著並びに挿画の『LE GRAND ECART』。1926年、フランスのSTOCK社の刊行で、タイトルのグラン・デカールは日本では渋澤龍彦訳のタイトル『大股びらき』で知られています。A4を一回り小さくしたくらいの判型の典型的なフランス装、限定500部で、写真製版を応用した銅版画の一種であるヘリオグラビュールを用いた挿画22葉 ( 内11葉は多色刷 )を綴じ込み、さらに各挿画には赤色でキャプションを刷りこんだ薄葉紙がつく格好。彩色にパステルが使われたと見られる挿絵は、ヘリオグラビュールによって非常に繊細かつ精緻に反映されています。当書の初版発行は1923年で、以後、フランスでは戦前より異なる数種の版で出版されていますが、当書の版の評価の高さにはこうしたオリジナル挿画への評価が多分に織り込まれているものと思われます。画像には描線にヴォリームのあるものを選びましたが、コクトーらしい巧みな省略を用いた挿画も多数含まれています。再現性の高い多色刷をはじめ、22点に上る挿画は … 現物のだけがもつ力 … 是非店頭でご高覧下さい。
■グラン・テカールは元来バレエ用語。というわけで今週はバレエつながりの新着品2点目となりました。
『舞踊批評』昭和8年1月創刊号より第4号までが入荷 画像左より ①第4号表紙(第1号よりデザイン共通) ②第1号より「故岩村和雄氏」(舞台衣裳姿) ③第2号口絵はバレエ・リュスの公式プログラムに使われたピカソの絵画 ④第3号の口絵より ペトリューシュカを踊るキルソヴァ
月刊誌『舞踊評論』の昭和8(1933)年1月1日発行の第1号から同年5月1日発行の第4号までの4冊。西川忠弘という人を発行人に、「西川方」に置かれた「舞踊評論社」を発行元に、後に宝塚や商業演劇界で演出家として活躍、美空ひばりの名付けの親とも云われる岡田恵吉などが執筆。この岡田と、どうやら村山知義などとも交流を持っていたらしい西川を除き、執筆陣はいまはほとんど名前を残していないメンバーがほとんどですが、1927年に上梓されていたイサドラ・ダンカンの「マイライフ」を翻訳・連載したり、「舞踊研究資料の下訳に本社の翻訳部をご利用下さい(英仏独露伊)」と告知したり、舞踊評論社という組織は、世界的視野で舞踊の新潮流をとらえ、それを広めるための役割を担う集団として構想されたものと目されます。実際、ざっと目次を拾っただけでも、舞踊の基礎としてのユーリズミックス・アート、ドゥビュッシィの歌謡曲二三について、ダンカンの二つの舞踊論、巴里舞踊界消息(毎号)、邦正美と石井獏へ、近代舞踊に於ける性に就いて、現代振付法、ガーネットを見る、といった調子で、同時代と次代とを意識した内容を含むものが多く見られます。また、ドイツでリトミックやモダンダンス等を学んで帰朝、築地小劇場に入団した後も新作舞踊を発表し続けながら、30才の若さで亡くなった岩村和雄の臨終の席に立ち会った岡田の報告・追悼など、他では類が少ないと思われる記事も。同誌が日本の舞踊界にどの程度の影響力を持っていたのか、その点は不明ですが、ここには、日本の舞踊界が世界と肩を並べる日を夢見て注がれた知見が、隅々にまでこめられています。市場に出現すること自体珍しい4冊は、一括での販売を予定いたしております。
■今週はこの他、『新ロシアパンフレット』『建築 造園 工芸 第1輯』等戦前の芸術・美学系書籍12冊、写真関係他広告印刷物13点、中国の絵入小型本2本口などか明日店に入荷、また、お盆の間に開催された五反田の市場からはデザイン系洋雑誌10冊、デザイン資料写真ファイル2冊、久しく縁のなかった文庫・文芸書系に加え →こちら などは今週木曜夜に店頭にそれぞれ配置を完了いたしました。今週末もまだまだ灼熱の夏が続くようですが、涼しい日時を選んでご来店いただければ幸甚に存じます。
『崔承喜パンフレット 第三号』より左から / 谷峰三デザインの表紙 / 堀野正雄撮影による「リリック・オペラ」のスチール / 見開きは朝鮮古曲による「エヘヤ・ノヤラ」の振付より /右下の封筒は崔承喜舞踊研究所専用封筒で久米正雄宛てのもの。別途入荷したものですが、パンフレットのおまけに。
■残暑お見舞い申し上げます。店の営業をお休みしているだけで仕事はまだまだ終わらない日月堂、今週も金曜深夜定例の新着品のご案内です。『SAISHOKI PANPHLET No.3』。欧文ではぴんとこない方もいらっしゃるかも知れませんが、奥付の表記『崔承喜パンフレット 第三号』と書けばお分かりの通り、戦前から戦中にかけて国内外で活躍した舞踊家・崔承喜の写真と活動と批評等を集めた総合的な機関誌=グラフ雑誌です。今回入荷の『第三号』は昭和11(1936)年11月16日付、杉並区永福町の崔承喜舞踊研究所から発行されています。いまから3年前の2007年6月に、一度だけ小店に入荷した同誌『第一集』は昭和10年の発行で、発行所は確かまだ、師にあたる石井獏の研究所と同じ自由が丘に置かれていたような記憶があります。短期間での相次ぐ機関誌発行と、研究所の文字通りの独立とは、昭和9年に開かれた「崔承喜 第一回発表会」以降、いかに目覚ましい成果を上げていたかの証左ともいえるでしょう。当号巻末・三段組みで2頁にわたって記されている、1934年9月の「東京第一回発表会」から1936年11月までの「崔承喜出演日誌」を見ると、この間に北海道から沖縄まで国内津々浦々、ばかりか、韓国、中国や台湾など旧植民地での公演も含め、年を追うごとに飛躍的に公演回数が増えていることが一目で分かります。一例を挙げると1936年の4月は釜山公演に始まり平壌、大連等を経て奉天まで巡業、月内に帰国してさらに東北方面を巡業し、この月の公演日数だけで21日に上る…といった具合。日程と会場など一覧にまとめられたこの公演記録は資料として貴重。また、牛山充による「作品解説」は1934年以降に発表された20作品を取り上げて詳解しており、写真と付け合わせて見ると舞踊の動きや印象など全体像を掴むのによいヒントとなるはずです。石井獏はじめ、新居格、板垣直子(=板垣鷹穂夫人)、青野季吉、村山知義、柳宗悦、園池公功らによる書き下ろしと目されるそれぞれ比較的長文の批評の他、光吉夏弥によるこちらも書き下ろしと思われる長文の英文批評、短文ながら長谷川時雨、窪川稲子、戸坂潤、吉田謙吉、水守亀之助、平野零児らによる公演を見ての来信、第1回から第3回までの新作発表会に関して各種メディアに掲載された批評の転載(1934~35年、永田龍男、江口博、光吉他)、『文芸』誌発表の川端康成「舞姫崔承喜論」など、堀野正雄撮影分を含む舞台姿(衣裳、ポーズ)の写真を多数収めたグラビア誌でありながら、これらのテキストもまた見落とせないものばかりです。
『伊東洋裁研究所規定』はB5・16Pの小冊子。上段右は洋裁道具をモチーフにデザインされた表紙 / その左は当冊子扉に置かれた伊東茂平の肖像写真 / 下段見開きは右が伊東洋裁研究所のあった虎ノ門・不二屋ビル、左がやはり同研究所のあった大阪・日産ビルの写真
当時の錚々たる知識人・文化人たちによるテキストに共通するのは、朝鮮古謡に題材をとった作品に対する評価の高さと、その方向で進むようにと口を揃えているところ。その口吻にはどこか、いまでいう“上から目線”といった印象が残ります。すでにお分かりの通り、この当時のモダニズムや“新感覚”をリードしたリベラリストたちを執筆陣に揃えながら、しかし彼らをもってしても、“帝国-植民地”という関係性は無意識の内に織り込まれていた、ということでしょうか。ご存知の通り今年2010年は日韓併合100年、そして来年2011年は崔承喜の生誕100年。戦前から戦後までその生涯を歴史に翻弄され続けた舞姫・崔承喜の研究は、まだまだ途上にあるとも聞きます。戦後65年、歴史の“抜け穴”はあちらこちらに散らばったまま、まだまだたくさん存在しているようです。
■戦後のスタイルブックなどでもよくその名前を見かける、ということは戦後までモード界・洋裁界で少なからず活躍していたはず伊東茂平。例えばこの人なども、なかなか正体を明かしてくれない人物のひとりといってよいのではないかと思います。その伊東茂平が戦前に起こした洋裁学校の学校案内『伊東洋裁研究所規定』( 1941年12月発行 ) が次の新着品です。伊東茂平は1898年(明治31)年生まれ、慶応義塾大学出身。洋裁は独学ながら「伊東式」と呼ばれる独自の作図法を考案。昭和4年=31才で銀座に店を構え、戦後は洋裁教育に携わり、昭和42年に68才で死去。教え子には後に洋裁学校を起こした上田安子や伊藤すま子、桑沢デザイン研究所を創設した桑沢洋子らが居る … といったところまでがせいぜい分かる程度で、まとまった評伝なども見当たらないようです。今回の学校案内掲載の写真で姿を見せる茂平さんは、ダブルのスーツにネクタイの出し方も決まったダンディーな美男子。また、伊藤洋裁研究所が入居していた虎ノ門の不二屋ビル、大阪の日産ビルはともに立派な建物で実業家としての手腕を物語るばかりか、モードを生み出すに相応しいセンスで撮影されていて、ここでも茂平さんの美意識が伺えます。この当時、東京の虎ノ門と三田、そして横浜、大阪の梅田と、4校をいずれも一等地に構えていた伊東洋裁研究所について、コースの内容や授業時間、休日など規則、そして授業料など、ひと通りのことがこの一冊で分かります。当冊子発行の前年に日本は太平洋戦争に突入、年を追って洋装どころの話ではなくなっていくのは周知の通り。おそらくは、伊東洋裁研究所もこの後は閉鎖の運命が待っていたはずです。戦前、女性が自立して生きていくための数少ない職業である洋裁教育に寄与し、しかも立体裁断を意識して取り入れようとした(…どうやらそうらしいです)など、モード界に深く関わりながら、人物として顧みられる気配のない伊東茂平という人もまた - 崔承喜ほどのスケールではないにせよ - あちこちにちらばった歴史の抜け穴のひとつなんでしょうね。あ。そういえばカワクボさんもヨージさんも慶応大学出身。ケーオーとモードとの間にはふかぁーい関係が - あるんだろーか…???
■さて、来週月曜日には五反田の市場の落札結果が判明、いつもの金曜日の市場も再開されます。もちろん店も、いつもの火・木・土曜日の各日12時~20時営業に戻ります。思い思いの夏休みを終えられましたら、みなさままた店にもお立ち寄り下さいませ。2010年の残り四分の一も引き続きよろしくお願いいたします。
■8月15日直前ということで、最後におまけをひとつ。陸軍糧秣廠内の財団法人食糧協会を設立者とする「食糧学校」・昭和17(1942)年度の「学校要項」(B4ペラ両面)、「入学志願者心得」(B5横長ペラ片面)とともに入荷した東條英機の訓話「調理の中に精神を活かせ」((B5横長ペラ片面)より。『伊東洋裁研究所規定』発行の翌年には、洋裁もへったくれもなくなっていたことが、このペラ一枚で十分納得せられましょう。以下はその東條訓話の抜き書きです。 “私は、凡そ生物にとつて、地球上にある食物に不足は絶対にないと思ふのであります。然るに「もの」が足りない。食ふものが足りないと、不足を唱ふる事は、私には解せないところでありまして、そもそもさう云ふあらゆる地球上の動物が生きて行ける様に、天が作っておるのでありますから、それに対して、何んの彼のと不足を列べる事は、唯人間の智恵が足りないからであります。” “即ち 食糧が足りないと申す前に、合理的に科学的に考へ、さうしてさう云ふ方面を解決する努力があるならば、足りない筈はない様に天から与えられて居るのであります。” これが当時の軍事・政治トップが考えた真面目なロジックなワケで … へたな怪談よりコワイ気がしてきませんか?
明治26年発行の『契菊百図』の内、『巻之一』『巻之二』。それぞれ多色刷木版による菊の図版25図ずつを収める。図版にはそれぞれ名前が添えられており、画像左から、小銀台、清涼殿、九重錦、錦之袖、下の見開きを使った図版は朝日鶴。僅かに紙の折癖と表紙まわりの多少の汚れはあるものの、埃シミや虫喰いは一切なく良好な状態が保たれている。
■早いもので今年ももうすぐお盆。曜日の関係で今年は夏休みも比較的短めの方が多いというのに小店ときたら …… 大変申し訳ない次第ですが、8月11日(水)から8月16日(月)まで店はお休みをいただきます。明日、7日(土)と来週10日(火)は12時~20時で営業いたします。また、17日(火)からはいつも通りの営業に戻ります。夏休みの間も市場に行ったり、またしても溜まったままの雑務の整理が待っていたりで、結局いつもと変わらず過ぎていきそうな一週間ですが、せめて少しは体を休めて、また店に戻りたいと思います。みなさまどうか楽しい夏休みをお過ごし下さい。
■夏休み直前、恒例の今週の新着品のご紹介です。先ずは明治26(1893)年、長谷川契華著『契花百菊』。多種多彩な菊の品種を多色刷木版で紹介したもので、『巻之一』と『巻之二』の2冊が入荷いたしました。32×22.5cmと比較的大きな版型で、『巻之一』『巻之二』ともにそれぞれ多色刷木版25図を所収。この調子でタイトルにある“百菊”図を発行したとすれば、全4巻が発行されたはずですが、国立国会図書館の所蔵冊数や「日本の古本屋」などから見て、実際に刊行されたのは3冊までだったようです。現在でも、愛好家が丹精した菊の品評会が各地で開催されているようですが、菊の栽培は江戸時代に流行、この頃から品種改良された新花の品評も行われたという古くから続く趣味のひとつで、当書が発行された明治時代には、大輪を競う傾向にあったとか。市場で先ず目をひかれたのもやはり、紙面いっぱいに描かれた「大菊」の大胆な構図と迫力 - とくに横見開きいっぱいに描かれたものには瞠目 - にありました。
大正6(1917)年発行『ウヰンドータイムス 第二号』より。上段左から 表紙、別刷紙片を貼り込んだ「ポスタースタンプ」の図案例、やはり石版刷の別刷を貼り込んだ「ウヰンドーバック図案」 下段左・見開き上段は東京松屋呉服店、同じく見開き下段は大阪大丸呉服店、下段・右の上下は東京丸善の、いずれも夏の帽子を使った大胆かつ瀟洒な陳列の写真。
「菊」と聞いて先ず思い浮かぶ辛気臭いイメージや、絵葉書でお馴染みだった菊人形のあの独特のキッチュないかがわしさとは全く無縁であるばかりか、アール・ヌーヴォー華やかなりし同時代ヨーロッパの植物画や植物図案と比べてもこちらの方がモダンではないかと思うほどです。波濤がぶつかり合うように多方向に白い花弁が開く「打合浪」、黒に見紛う深い紅色をした「濡烏」、紅白の花弁が大輪を二分する「源平」など、ネーミングの妙も。ちなみに左の画像中、左から2点目の名前は「清涼殿」。ささやかながら、暑中お見舞いに代えての新着品です。
■『ウヰンドータイムス第二号』は銀座・ウヰンドータイムス社が大正6年6月発行した、ショーウィンドー装飾を中心とする商業美術専門雑誌。内容の性格上、カラー石版刷のサンプル図案や実例写真など多数の図版が楽しい雑誌です。巻頭記事はこの当時大阪に移っていた三越の宣伝マンで、「今日は帝劇、明日は三越」の名コピーの生みの親・濱田四郎による「ウヰンドーの鑑査標準」。“ウヰンドーの出来栄えを論評して甲乙を付”すコンクールが流行し始めていたのに対し、主観的かつ多様になりがちな評価に明確な基準を提案するもので、当号は連載の2回目分。ニューヨークの百貨店で採用されている採点表などを交え、理路整然と評価への道筋を考察しています。同じ三越の宣伝部から、松宮三郎は上林機峯なる人物を相手に広告における作家本位主義と商売本位主義をめぐる論争をふっかけ、アメリカのポスター・アドバタイジング協会における講演「ポスター芸術の発展」を翻訳して紹介し、「ウヰンドー陳列は最も強き暗示広告なり」ではアメリカの例をひきながら暗示広告の成功事例とともに心理的側面を解説 … といった具合で、日本の広告界がすでに相当なレベルで成熟していたことを思わせる内容です。三越、松屋、いとう呉服店、クラブ化粧品などと並んで、ウィンドー・ディスプレイ専用什器を扱う商店の広告も写真入りで散見されます。大正6年といえば西暦1917年。維新から半世紀を経て、ショーウィンドーが都市を飾り、飾り窓が遊歩者を集め、広告意匠家は遊歩者へのメッセージに趣向を凝らす、西欧先進諸国の都市像に追いつきつつあった日本の姿がこんな雑誌の1冊からでさえ、透けて見えてくるようです。
■今週はこの他 … … の続きはまた来週、当新着品ご案内で。店は夏休みですが当新着品の更新は無休でまいります。休みといえどもお忘れなく、またHPもご高覧いただけますよう、徹頭徹尾勝手ながらのお願いを申し上げまして、夏休み直前の新着品も「打ち止め、うちどめぇ~」。