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連載「バレエ・リュスと日本人たち」 Ballets Russes et les japonais
第2回ニジンスキー「牧神の午後」をめぐって[下]
沼辺 信一

06/June/2009

窓から薔薇の精がすうっと入って来る
ところで、バレエ・リュスの舞台を最初に観た日本人は一体誰なのだろうか。
残念ながら筆者は今のところ、この問いに明確な答えを出せないでいる。バレエ・リュスは1909年以来、毎年のように大々的にパリ公演を催し、1910年にはベルリンとブリュッセル、1911年にはモンテカルロ、ローマ、そしてロンドンでも公演を行っているので、いずれかの機会に足を運んだ日本人が少なからずいたに違いない。懐具合の乏しい留学生はともかくとして、外交官や商社員ならその可能性はかなり高いはずだ。ただし、そうした人々はほとんど鑑賞記録を残さないので、確実に「観た」という証拠も存在しない。
第一次大戦前のパリで歌舞音曲に親しんだ日本人というと、誰しもまず永井荷風(1879~1959)の名を想起するのではないか。銀行員としてニューヨーク赴任中、メトロポリタン歌劇場でオペラの魅力に開眼し、フランスに移ってからもリヨン、次いでパリで連日のように演奏会とオペラに通いつめた荷風こそは、バレエ・リュスの最初の「発見者」たるべき資質を最もよく備えた人物だったと思われる。彼は「ドビュツシー独特の夢幻、暗示の情味」「幽暗な美感」に通暁しており、ニジンスキーのバレエの原曲である管弦楽曲『牧神の午後の前奏曲』についても、マラルメの原詩を踏まえつつ、その特質を驚くほど的確な表現で言い当てている【註4】

曲は古来のサンフォニーとは全く違つた趣で、先づ美しい横笛と淋しい立琴の音を主としたオーケストルで夢の如く浮び出る。[マラルメの]詩章にある通り、「獅子里の海辺、静かなる小石原」に暑き日の輝く夏の午過、腰より下は獣の様して、髯深いフォーンとよぶ牧野の神が、昼の夢覚めて、肉美しいナンフ(女神)と戯れたは、過ぎし現実の歓楽であつたか、或は覚めたる夢の影であつたか、と思迷ふ。夢と現の思出は入り乱れて何かとも弁じ難くなつた。縦笛(オーボワ)の音一際高く、緑深き牧野の様を思はせて、オーケストルは一斉に乱るゝ思ひと、捕へんとする慾情の悩みに高り狂つたが、次第に静り収つて、曲の初めに聞えたる涼しい横笛と淋しい立琴の音が、雅【みや】びたサンバル(鐃鉢の類)の響と共に現はれ、聴者の心も亦夢の如くなつて、思出の悩に疲れ果てた牧神が、遂には再び夢みるとも無く夢に入る有様を想像せしむる

嫋々たる雅やかな美文がいかにも時代がかっているものの、『牧神の午後への前奏曲』を標題音楽の一種、マラルメの詩章に基づく交響詩とみる限りにおいて、荷風の解説は実に的を射ており、今日でも立派に通用しよう。ドビュッシーの楽曲がまだ現代音楽だった1908年の時点で、荷風はその繊細微妙な魅力を存分に味わえた(むしろ、ほとんどそれに惑溺した)ばかりか、オーケストレーションの細部に即しつつ表現のありかを冷静に分析し、言語化することができた。もしも荷風に1912年のシャトレ座でニジンスキーの『牧神の午後』を観る機会が与えられたならば、さぞかし洞察力に溢れる手記を書き綴ったことであろう。何とも口惜しいことに、彼は父親からの帰国命令で1908年5月、ヨーロッパを後にしてしまう。バレエ・リュス第一回パリ公演のちょうど一年前のことである。
筆者の調べた限りでは、先に紹介した1912年6月の石井柏亭の日誌が、日本人の書き残した最初のバレエ・リュス鑑賞記録である。このほか、柏亭と同じく洋画家で、パリ留学中だった梅原龍三郎(当時は良三郎/1888~1986)もかなり早くからバレエ・リュスを観ていたらしく、遙か後年になって、

何しろルシアン・バレエが初めてパリに来た年から私は見た

と、問われるままに往時を回想し、

窓からバラの精がすうつと入つて来る。それがニジンスキーなんです。高い窓をふうつと風の如く入つて来る。そうして眠つているお嬢さんとキリキリ舞の踊りを……非常に軽く速い踊りでまた窓からすうつと消えて幕が下りる。その間三分か四分、五分とはかからなかつた。〝あッ〟と言つて、あつけにとられている感じ」「ニジンスキーで最もセンセーションを起したのは[中略]初めてパリで〝牧神の午後〟を上演したとき、音楽はドビッシーだつたですか。あのときのニジンスキーの印象はたいへんでしたね。


と語っているが、40年後ということもありその記憶はかなり曖昧である【註5】
再び1912年の公演に話を戻せば、ちょうどこの時期のパリには歌人の与謝野寛(1873~1935)・晶子(1878~1942)夫妻も滞在しており(寛は前年暮れから在パリ、晶子は5月19日に到着)、バレエ・リュスの舞台に接するチャンスは何度かあったはずだが、二人の紀行文中にそれらしい記述は見出せない。帰国後の晶子は『火の鳥』と題された歌集(1919年)を刊行するなど、気になる材料もあるのだが、現時点では与謝野夫妻がパリもしくはロンドンでバレエ・リュス公演を観たとする確かな証拠は何一つない【註6】
パリにはもう一人、滋野清武(1882~1924)という興味深い人物もいた。男爵家の嫡男として生まれ、東京音楽学校を卒業しながら、一転して飛行家を志し渡仏した変わり種である(しかも爵位をもつ身でフランス女性と結婚し、物議を醸した)。滋野はこの年の5月、バレエ・リュスのパリ公演を確実に観ており、二年後に「夫は実に実に深刻なものであつた」と、そのときの「深い、而して強い印象」を回想しているが、残念なことに肝心の演目が判明しない【註7】滋野は石井柏亭や与謝野寛とも親しく、パリおよび郊外のイシー・レ・ムリノー飛行場で案内役を務めている(例えば5月26日には自分の運転する乗用車に柏亭を乗せ、パリ市内をドライヴしている)ので、そうした際にバレエ・リュスの素晴らしさを吹聴したかもしれない。
この滋野清武は作曲家の山田耕筰(当時は耕作)の親友でもあり、当連載が山田耕筰のバレエ・リュス体験について触れる際に、再び登場してもらう予定である。

『牧神の午後』の牧神とニンフたち
出典:"Comoedia Illustré"誌1912年6月15日号/photo : Adolph de Meyer

ニンフらは皆ギリシアの瓶から歩き出したよう
バレエ・リュスの主宰者ディアギレフが目指したのは、舞踊・音楽・演劇・美術などの諸芸術がバレエという形式のなかで有機的に結びつき渾然一体をなす、一種の総合芸術であった。したがって、彼のもとにはダンサーや振付家のみならず、あらゆるジャンルの優れた芸術家が参集する結果となった。
面白いことに、同様の現象はバレエ・リュス公演中の劇場内の客席においても起こっていた。金と暇をもて余した従来のバレトマーヌ(バレエ愛好者)たちに混じって、作曲家、画家、彫刻家、詩人、小説家らの姿がそこここに認められたのである。バレエ・リュスの提示する新しい総合芸術のありようは、各分野の実践者たちにとっても十分に刺激的だったのであろう。油彩、水彩のみならず、版画・挿絵・漫画にも手を染め、「パンの会」常連として多くの文学者と親しく交わっていた教養人、石井柏亭の眼に、果たしてバレエ・リュスの総合的な舞台美術はどのように映じたのだろうか。
柏亭も記すとおり、当夜の装置・衣装は四演目ともすべてレオン・バクストの手になるものであったが、さして長くはない記述からは、彼が美術としてのバレエをどう見たかは必ずしも明確でない。今日バクストの代表作と認められている『シェエラザード』の、濃密な異国情緒に塗り込められた(いささかこけ威かしの感もある)舞台装置は、穏健な柏亭の趣味には合わなかったかもしれない。むしろ彼のお気に召したのは、背景と舞踊がともに「最絵画的で静かないゝ感じ」の『牧神の午後』だった。画家としての彼が重視したのは舞台美術と舞踊そのものとが一体となって醸し出す「絵画的効果」であり、その点からみて「斯う云ふ風な無言劇の方が」好ましいと感じたようである。
濃厚な色調で彩られた『牧神の午後』の背景画はドビュッシーの音楽ともニジンスキーの振付とも調和しておらず、今日の目から見ると必ずしも成功作とは見做し得ないので、柏亭の肯定的な意見は少々意外な気もするが、彼がニンフたちの所作について、「出て来るニムフ等はみな希臘の瓶から歩き出したやうな形をして、手の動かし方足の運び方にアルカイックの趣を伝へた」と評しているのは、ニジンスキーの演出意図をずばりと言い当てた至言であろう。
考えてみれば、柏亭にとってはこれが本格的なバレエ公演を観る最初の機会だったはずだ(彼が渡欧した時点で日本にはまだバレエと呼べるものは存在しなかった。ヨーロッパ滞在中にオペラは観ているかもしれない)。生まれて初めて接するバレエが「オール・ニジンスキー・プロ」だったというのも贅沢な話であるが、それにしては驚くほど冷静かつ的確な判断が下されている。天性の「見巧者」というべきだろう。この見る眼の確かさ、判断の正しさは柏亭のいわば身上であり、そうした美質は帰国後の1913(大正二)年、彼が海外での見聞をまとめて刊行した旅行記『欧洲美術遍路』のあらゆるページに発見できる。
柏亭は貪欲きわまりない美術鑑賞者だった。古代の文物、ルネサンス・バロック期の絵画から印象派、後期印象派を経て当時最先端の前衛的な作品に至るまで、彼は旅先であらゆる時代の美術を丹念に観察し、自分なりに咀嚼吸収し、達意の文章に記録した。そうした柏亭のことゆえ、シャトレ座でバクストの舞台美術に接する一年も前にいち早く「アール・デコラチーフのミューゼー」、即ちパリの装飾美術館で「彼れの図案類の展覧されたのを観」ている(1911年6月)のも驚くには当たるまい。
1912年6月にバレエ・リュスを鑑賞して間もなく柏亭はパリを去り、イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツを訪れた後、モスクワを経て陸路シベリア鉄道で帰国の途につく(帰国は同年10月)。鋭敏な観察者だった彼は、二年近くに及んだ欧州での体験を踏まえて、

兎に角泰西の画界に今一大変動が起りつゝある事実の前には何人も眼を塞ぐことは出来まい

との感慨を強く抱いていた。事物の形を分解してしまうピカソやメッツァンジェらのキュビスム絵画や、画面が線と色斑とで覆われ、「自然の外形は悉く排斥され」たカンディンスキーの半抽象絵画に対してはさすがに困惑を隠せないものの、マティス、マルケ、ヴァン・ドンゲンらフォーヴィスム画家の新作には総じて理解と共感を示し、

最極端なものを除外として私は大体に於て泰西絵画の新傾向に同感することが出来る。

と、帰国直後の報告のなかで総括している【註8】
東京に戻った柏亭を待ち受けていたのは、彼がヨーロッパで目撃してきた「泰西絵画の新傾向」が早くも東京に伝播し、岸田劉生、木村荘八、岡本帰一ら一群の若い画家たちが「ヒュウザン会」(「フュウザン会」とも)を結成、展覧会を催すという状況であった(第一回ヒュウザン会油絵展覧会)。【註9】 彼らのなかにはほとんどヨーロッパ経験者はおらず、ひたすら海外の画集や雑誌の複製図版からゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、マティスら後期印象派(当時はフォーヴィスムも後期印象派の一部と考えられていた)の画風を摂取し、独自のスタイルを生み出そうとしていたのである。柏亭はこの展覧会に二度までも足を運んだ後、次のように苦言を呈さざるを得なかった。

此人達は口を揃えて自分等の仕事は模倣ではない、正真な自己の表白だと曰ふ。成程さうかも知れない。併し其陳列作品の大部分が他から観た場合模倣的に見えると曰はれても其れに対して抗議を申込む訳には行かない[中略]残念ながらフユーザン会列品の多くは、精々サロン・ドートンヌの末輩の諸作に伍する位の資格しか無いものと曰ひたい。

何とも辛口そのものの厳しい批評だが、本場で最新の美術動向をつぶさに見てきた新帰朝者の発言には揺るぎない自信と説得力がある。

上左) パリ滞在中の二人の画家、石井柏亭(左)と九里四郎 (1911年秋、パリ、リュクサンブール公園) 出典 : 『柏亭自伝』 
上右) 柏亭がスケッチしたメッツァンジェのキュビスム絵画 (1911年6月、パリ、アンデパンダン展にて) 出典 : 『欧洲美術遍路』上巻  下) 西村伊作邸で『N氏と其一家』を制作中の柏亭 (1913年7月、新宮)  出典 :『柏亭自伝』

ニジンスキーの手振りを戯れに真似た
その卓越した批評眼や理解力とは裏腹に、実作者としての柏亭はきわめて保守的だった。新傾向の美術作品にあれほど意欲的に接していたにもかかわらず、旅先でかなりの点数描いていた水彩画や油彩画に、それらの反映がほとんどみられないのである【註1030歳を迎えた画家はすでに自己形成期を終えていた、と言ってしまえばそれまでだが、体験と制作との甚だしい乖離には驚きを禁じ得ない。
そうしたスタンスをとる柏亭であるから、1912年6 月のバレエ・リュス体験が創作者としての彼に何をもたらしたかは容易に窺い知ることができない。守備範囲の広い柏亭も、舞台美術の分野にはその後もほとんど手を染めなかったようなので、バクストからの感化があったとしても、それが実作に生かされる機会は訪れなかった。翌1913年刊行の『欧洲美術遍路』に収められた鑑賞記が、彼のバレエ・リュス体験のすべてなのである。彼は身近な友人の誰かに、ニジンスキーの素晴らしさを吹聴しはしなかっただろうか。
ささやかな後日談を一つ。1913(大正二)年7月、和歌山県新宮に住む裕福な青年、西村伊作(1884~1963)に招かれた石井柏亭は、当時としては珍しい西村家の洋風の暮らし向き(自分で設計したアメリカ式の洋館に住み、朝食はベーコン・エッグ、オートミール、自家製パンと紅茶)に目を瞠りながら、乞われるままに伊作とその家族の肖像を油彩で描いた(『N氏と其一家』)。
紀州の風光明媚な自然のなかでくつろいだ一夏を過ごした柏亭は、晩年になってこのときの思い出を懐かしそうにこう記す【註11

N氏の群像の仕事が済んでからの或日であったろう。西村と私とは和船で熊野川を少し上流に遡ったが、外光で画のモデルにする諒解のもとに、かねて知合の牡丹という芸者を同乗させて行った。私は船を山かげの岸に繋がせ、陰のなかの船に彼女を坐らせて対岸の日のあたる崖の水に映るのと併せて描いた。その間西村は裸になって水に入り、私の話で知った露西亜舞踊家ニジンスキーの手ぶりをたわむれに真似たりしていた。

やはり柏亭は黙ってはいられなかったとみえる。心を許せる友人に対してはバレエ・リュスの思い出話をし、身振り手振りすら交えてニジンスキーの舞踊を説明していた。それを聞かされた側も、思わず体が動き出してしまうというあたりが何とも微笑ましい。バレエ・リュス体験が人から人へと伝播するとき、このように身体的感応を伴うという事実はことのほか重要であり、本連載でも同様の場面に何度となく出くわすことになろう。
このとき西村伊作が真似てみせたのは、ひょっとしてあの牧神のぎくしゃくとした特徴的な仕草ではなかったか。セーヌ河畔のシャトレ座で演じられたニジンスキーの身体表現が、そのわずか一年後には紀州熊野川の波間でぎこちなくも模倣されてしまう。大正時代の初め、洋の東西を隔てる距離は思いがけず小さかったのだ。

【註】
4.  永井荷風「西洋音楽最近の傾向」『早稲田文学』35号、1908(明治四一)年10月、18~19頁。
5.  徳川夢声「梅原龍三郎素描」(芸道漫歩対談4)『芸術新潮』1951(昭和二六)年1月号、107頁。この梅原龍三郎との対談は、徳川夢声『芸術家素描』(関書院、1955年)にも再録された。
6.  与謝野晶子に関しては、バレエ・リュスを観る機会を逸したことが確実である。帰国後の1916(大正五)年、ロシア人舞踊家ロマノフ、スミルノワ夫妻の来日公演に際して書かれた文中で、「私は欧洲の旅中にニジンスキイ氏やカルサヰ[濁点付き]ナ女史の踊を観なかつた」と明言しているからである。出典:「露西亜踊を観て」『定本与謝野晶子全集』15巻 講談社、1980(昭和五五)年、376頁。
7.  滋野清武「バレー リュース(露西亜舞踏)の堕落」『音楽』5巻8号、1914(大正三)年、59頁。
8.  石井柏亭「フオーヴィズムとアンチ、ナチユラリズム」『早稲田文学』85号、1912(大正元)年12月、2頁。以下、文中での数か所の引用もすべてこの論文から行った。
9.  柏亭の帰国は1912(大正元)年10月10日。「第一回ヒュウザン会油絵展覧会」は同年10月15日から11月3日まで、東京銀座の読売新聞社で開催された。
10.  柏亭がこのときの外遊中に描いた水彩画・油彩画については、展覧会カタログ『石井柏亭  絵の旅』(渋谷区立松濤美術館、2000年)を参照のこと。出品作17~34、並びに参考図版29~49が該当作品である。
11.  石井柏亭『柏亭自伝』中央公論美術出版、1971(昭和四六)年、368頁。この書物は柏亭の歿後、既刊・未刊のさまざまな自伝的文章を配列・編集したものである。当該箇所は「N氏と其一家」と題された生前未発表の原稿の一節。執筆年代は第二次大戦後、おそらく晩年であろう。なお、文中に出る「川船に芸者を乗せて描いた絵」というのは、千葉県立美術館に現存する水彩画『舟に居る人』のことを指すと思われる。
西村伊作は早くに両親を喪い、叔父で開業医の大石誠之助に養育されて、その社会主義思想の感化を受けた。1910(明治四三)年、大逆事件に連座して大石は逮捕され(翌年に処刑された)、西村自身も官憲に身柄を拘束された。その後の西村の全生涯は、国家権力と対峙する真の自由人としての自己の実現のために捧げられたとおぼしい。
広く知られているように、彼は与謝野夫妻と語らって1921(大正一〇)年、芸術教育・個性尊重を旨とする「文化学院」を東京神田駿河台に設立する。1913年夏以来、西村との交友を深めていた石井柏亭は、そのリベラルな教育理念に共鳴し、創設メンバーの一人として同校の美術部門の責任者を長く務めることになる。
【追記】
連載第一回の【註3】では、石井柏亭がバレエ・リュスを観た日付「6月8日」に疑義が残るとしたが、これを再考した結果、柏亭の観劇日は演目記録と合致する「6月7日」であるという推測に至った。すなわち、観劇は7日、日記を書いたのは翌8日、日記の日付は執筆日に合わせたもので、このために「明後日が其最終の日[=6月10日]だ」と記したのではないか。この見方に立つと、柏亭の行動とバレエ・リュスについて残された記録との間で、矛盾なく事実関係の合致をみることができる。(2009年6月7日記)

本稿は2003年クローバー・ブックス刊『アートマニア』創刊号掲載分に増補加筆したものである。