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これから、のこと。(初回付録 ? 付き) 
古書日月堂 佐藤真砂 2009年01月13日up!!

職業でも肩書でもなく、誰に頼まれたでも報酬のためでもなく、身銭をきって古書・古本を蒐め、ジャーナリスト顔負けの行動力によっていまは失われてしまったある人の相貌をつかみとったり、研究者に比肩する考察にたどり着く。残された点と点とを結ぶ線を古書・古本のなかに発見する旅の物語りを、私は店先にいて、わざわざお運びくださったお客様から、随分たくさんうかがってきたように思います。往々にして「古本の神さま」の存在を信じたくなるようなエピソードを伴う物語を、ワクワクドキドキ、大いに眼を啓かれ、時に胸うたれながら。
偶然にも小店の数少ないお客様がひとりでもその場にいらしたならまだしも、長らく私はそれを独り占めにしてきてしまいました。今回のリニューアルにあたり、これまで不遇をかこってきた-よりによって私ひとりだなんて ! -物語を、ひとりでも多くの方にお伝えできればと考えたのがこのページです。人と人との時間の共有の中で伝えられた物語は、いかに鮮烈なものであろうと淡く儚い存在です。点と点との間に見出された線を、記憶とともに薄れて再び見失うことがないように。
例えば戦前、ヨーロッパで起こった芸術運動が遥か東国の日本にもたらした衝撃について、例えば日本の戦後アートシーンに重要な役割を果たしながら殆ど名前も知られぬまま眠りについた一人の女性について、ご寄稿をお願いいたしております。リニューアルを私どものスケジュールで進めてしまったため、当ページの本領発揮までには少々お時間をいただきます。どうかお楽しみに、いま暫く待ちください。 
あくまで立ち上がりの賑やかし・埋め草として、いまから丁度干支一回り分前、私が古本屋になって1年程経った頃に古書組合の機関誌に求められて書いた拙文を以下に転載いたします。とくに「印刷解体」以降、「一体何屋なんだか」と云われる小店ですが、何のことはない、この頃にはすでにその片鱗をみせていたわけです。栴檀は双葉よ……もとい。三つ子の魂百まで。初心忘るべからず(何か違う気も)。この当時から近眼の眼鏡は代を重ねて四代目。さらに昨年からは「中近両用」なる眼鏡を併用するようになり、当時より少しは眼が見えるようになったとすれば、それは全て歴代の眼鏡と、何よりみなさまから賜りましたたくさんのご教示の賜物に違いありません。  日月堂

眼と眼鏡をめぐる話(『古書月報』1997年10月号より転載)
古書日月堂 佐藤真砂

頭も悪いが眼も悪い。他にも悪いところは色々あるが、きりがないのでやめておく。就寝中と入浴中以外、眼鏡は欠かせない。コンタクトは使わない。学生時代に試して見たところ、三ヶ月間に三度、洗面台に落としてしまい、アルバイト代とともに水に流すということがあって以来、眼鏡一辺倒である。どうもその頃から自分のミテクレに一層構わなくなり、色気もソッケもなくなった気もするのだが、そんな話はどうでもよい。眼鏡の話である。
最近またしても度が進んできたようで、少々不便を感じている。歳をとると近視の進行は止まると聞くが、とすれば私もまだ若い証拠か、よく分からない。南部支部の通常市は振りで行われるのだが、荷物の背文字がよく見えない。自然、身を乗り出すようになるから、周りの諸先輩方には大変なご迷惑をおかけしている。手前のことでいえば、読み取るのに必死になっている間にもセリは始まり、ばかりか、アアッなんて思う頃には一件落着していたりする。大先輩のおひとりに、なかなか発声できないとこぼすと、損しちゃいけないと思えば一生懸命読もうとして余計声が出せない道理、少しでも気があれば余所見しながらでも何気なく声を出してみる、高すぎたら恐縮しながら出直ればいい、そのうちカンもつかめてくる、とアドバイスをいただいた。
ある日、振り手に背を向けて落とした荷物をさばいていると、欲しいと思っていた本のタイトルが聞こえてくる。すぐにハナ声がかかった。まだいけると思った瞬間、自然に声がでていた。落とせた。多分、場を見ていたなら幾らで売るか、本当に売れるのかなど雑念が頭を駆け巡り、発声しそびれていたに違いない。もっとも発声した途端、振り手から「これ一冊だけだよ」といわれ、少し値段を下げるという間抜けな場面はあったのだが。味をしめた。やはり荷さばきをしている時、暫く声のかからない荷物があった。函入り七~八冊の束が振り向きざま眼にはいり、とっさに「五百円」と発声したのだが、これがとんでもない、古本屋なら当然四~五千円つけることを知っているべき荷物だったのである。
こうなると、眼が悪いとか眼鏡が合わないといった問題ではない。要は私にはまだまだ「見えていない」ものがたくさんあるということだ。基本的な書籍の話だけではない。黒っぽい山の中から、背を見ただけでは最草判然としない状態で、それでも良書を掬い上げる諸先輩には、私には全く見えていない多くの何かがしっかり見えているはずである。読むのではなく見えるようになる。曇っている眼を鍛える。そのためには、何だか見えにくい眼鏡の方が却って具合がよい気がしてくる。「眼鏡買うより本を買え」と、どこかで囁く声もする。
今、店のレジ横に昔の書生を彷彿とさせる古い眼鏡を置いて売っている。元の持ち主の眼に合わせてあるから、レンズを替えない限り見えない眼鏡である。読書に眼鏡が欠かせぬ身から、いたずらのつもりで置いてみたのだが、これが若い人の注意をひいて話の糸口になるし、結構売れるのである。本が売れない日、眼鏡が売上を作ってくれることもある。本業を考えれば忸怩たるものがあるが、ちょっと面白く思ったりする。 自分の眼鏡と売る眼鏡と、ともに見えない眼鏡ではある。が、今暫くは我と我が店を助けてくれるかも知れない小道具なのである。