嘉永7年(1854年)官許発行『萬国旗鑑』。全て木版多色刷の標旗240図所収。開国前夜、さまざまな理由で日本に到来するようになった諸国の船を見分けるための懐中携行用の資料。のっぴきならない理由で刊行された書籍だが、稚拙な図版はむしろ微笑ましく見える。
■寒さとオリンピックのためか、普段以上に静かな一週間。即ちヒマ。で、ついこんなことを。MOON MAPとマイケ ………… いやいやいや。もちろん売るほどある仕事についても余念なく、ジェオグラフィカさんへの納品準備はじめ、進めるべきは進めております。来週は、ご覧いただくにもいささか面倒な具合になってしまっていた紙モノを、少しスリム化する予定。万一、気になるものなどお残しでしたら、お早めにご確認いただければ幸甚に存じます。何卒よろしくお願いいたします。
■今週は、いかに小店が大市 = 古書界の王道・或いは専門分野が確立された商品と、ほんとうに縁遠い仕事をしてきたかを痛感した一週間でもありました。美麗かつ高額な商品が並ぶ大市よりも、乱雑で脈絡なく相場なんてなさそうなものに溢れた通常市を! と熱望するものであります。といったわけでご紹介する新着品3点は金曜日のいつもの市場の落札品からとなりました。『萬国旗鑑』は文字通り、世界の旗図鑑というべきもので、江戸時代末期・嘉永7年(1854年)の官許発行。巻末の記載によれば、海外事情が伝わり始めた数十年前、五十余国について出したが刊行以後改変された旗もあり、また近頃やってくるようになった国や団体も多く、より詳しい情報が得られたので版を改めた、といい、「以下新増標旗四十八」と明記した上で増補したのと合わせ、世界各国・各地域の客船、商船、軍艦等種類別の標旗240図を所収。これら全て、多色木版刷となっています。1854年といえばペリー来航の翌年、日米和親条約締結の年。“此書ヲ懐ニシ時ニ望ンテ其商舶ト軍艦トヲ弁知セハ海防ノ益少ナカラス”とはやはり巻末に記載された一文で、ヘタウマ調の牧歌的な図版とは裏腹に、これがなかなか差し迫った要求の下に刊行されたもののようで、“入港のトキ大砲ヲ発シ然シテ旗ヲ立ルニ十字ヲカキタルハ軍艦ニ非スト云フ印ナリ”などとあるのは生々しいところ。思えば「これは一体何を描いてるの?」と思わず笑がこぼれる図版の稚拙さ加減は、旗に描かれた象徴に関する無知に基づくものであり(鷲に頭がふたっつ? 馬に羽? なんやソレ。描けんがな。)、当時の日本が置かれていた世界との距離の遠さを表わしているに違いありません。横浜港正式開港で鎖国に風穴が開けられたのは1859年、当書刊行より5年後のこと。
■で、さらにそこから8年後には、泰平の江戸時代に終わりを告げ、時代は明治に。文明開化のご時世に欧化の波はいよいよ高く、ザンギリ頭が推奨され、軍や官僚から洋装も導入、これが洋服の普及の契機となって … というのはご存知の通り。そのきっかけのひとつとなったのが、明治5年(1872年)に制定され、格式の高い席で着用すべき礼服を階級によって厳格に規則化した「大礼服汎則」。『大礼服制表並図』は、この制定とともに「官版」として刊行されたいわば礼服用の公式マニュアルで、図版はここからのプレート。服制とあって、色彩も指定する必要がある一方、色彩を再現するのが困難な当時の印刷事情の関係から、こちらも全て多色木版刷となっています。着用すべき礼装を、帽子、側章、釦、上着、短胴服(ベスト)、袴(ズボン)などアイテム毎に、また、織柄の細かい縁章などは部分的にクローズ・アップして紹介。部分によっては寸法など細部に至るまで指定されています。黒の上に刷られた金色の深さや、ところによっては黒の上に黒を重ねてその素材の差異が分かるという、木版刷の見事さが随所に見られます。落丁・切り抜き多数のため歴史資料としてはお勧めいたしかねますが、木版の刷りモノとしてはモダン、ファッション・デザインとしてはシックなこれらのプレート、受け取り方次第でいかようにもお使いいただけるのではないかと。それにしても何故、厳格な規則を忠実に写した礼服の図版が、いまのファッション・ブランドのカタログや広告の数倍魅力的に見えるのか …… これもまた新興国の勢いだったのでしょうか、いまより良い時代だったとは思わないけれど。
■さらに時代は進んで文明開化から半世紀、それまで船で何カ月もかかっていた欧化の大本・欧州への距離はシベリア鉄道経由で数週間にまで短縮され、となると依然、どこか欧化気分の残る日本には政治経済思想文化あらゆる尖端情報がほとんど同時に輸入され、みるみる吸収されていく、という状況のなかで生まれたおびただしい書物の内の一冊が、『機械と芸術運動』。昭和5年(1930年)発行の初版、著者は東大の同人誌として発行された『大学左派』や左翼系書籍の翻訳で僅かに名前を残す木村利美、装丁はやはりプロレタリア美術の朝野方夫。テキストは“蔵原惟人、板垣鷹穂氏等によつてなされた研究を、ボクの僅かな知識で整理したに過ぎない”と本人が謙遜してみせる木村のテキストの他に翻訳が3篇、巻頭には未来派から抽象派、バウハウスからスカイスクレーパーまで、こちらも板垣氏の著作を整理したかのような内外“尖端”図版多数。左翼思想+前衛芸術の内外尖端を寄り集めたような一冊ですが、“単に、世界的な最尖端的現象を寄せ集めて来、そしてそれを解説的に並べたて分類することは語学の力と資力さへあれば、誰にだってできることだ。困難は、われわれ自身が、新しい建築を、築き上げて行くことにあるのだ。”という著者の言葉によって、文明開化とは遥かに遠く、むしろ2010年に近い現代性を持ち得ているように思われます。いや、むしろ、現在は1930年代まで後退していると見るべきなのかも知れません。世界中のどこであろうが、あらゆる分野のさまざまな性質の情報に瞬時にアクセスでき、テキストのことごとくがデータ化され、“寄せ集め”のこれほど容易い時代はかつてなく、しかしそこから“新しい建築”を築こうという意思はあるのか。過去とは常に現代を問うてやまないもののようです。 今週はこの他、製本美術関係ビジュアル本4冊、手製本関係洋書2冊、戦前左翼系書籍4冊に襖紙見本帖が3冊店に入荷、他にジェオグラフィカさんに直行予定の洋書3本分などもいったん店に入荷となります。
1970年、大阪万博の年に発行された『季刊 KEN』シリーズNo.1は、全頁万博特集で万博の徹底批判を展開。万博の祝祭気分に冷や水を浴びせるような「釜ガ埼」の写真や「万博粉砕宣言」なども。発売元は写植のパアオニア企業・写研。
■あと8時間ほど後にはバンクーバー冬季オリンピックが開幕。先週の新着品でご案内した伊藤銃次郎氏の大外遊の記録『欧米の思出』のご紹介ではとても大切なことを書きもらしておりまして、伊藤さん、この旅の途上でベルリン・オリンピックを熱心に観戦していた様子が、チケット半券などとともに残されております。金曜深夜・土曜未明、このページのために国内に居ながら時差生活を送る毎週末、年毎にどうも足元が怪しくなってきているようで悪しからず…。
■オリンピックと同様、20世紀的一大スペクタクルとして位置づけられるもののひとつが万国博覧会。いうまでもなく日本では1970年の大阪がそれで、確かに国を挙げての大イベントだったことを記憶しています。“世界の国からコンニチハ”とひたすら明るく前向きに歓迎されていたはずだったこのイベントについて、建築、美術、デザイン、写真や文学などなど芸術文化各界、左右に分かれて賛否両論喧々諤々…と、実は複雑な対立があったことを知るようになったのは1970年からず、ず、ずぅーーーーーーっと後のことでした。今週は金曜日の市場がお休み、なので最初の2点はともに数日だけ店頭に出したものの行き場をなくして暫くひっこめていたものから、先ずは『季刊 KEN』のシリーズNo.1。
昭和45年=1970年7月1日付で発行元は写研。全頁特集「噫!万博」は、明らかに万博批判で一貫していて、産業界にあっては色々と利権もからんだであろう大阪万博、しかも高度に政治性を帯びる国家的事業に対して、こうした論調を「企業」が支援した珍しい例ではないでしょうか。写研の企業風土というのもなかなか気になるところです。巻頭のグラビアはテキストとともに東松照明、針生一郎、多木浩二、木村恒久などが寄稿、野坂昭如+石堂淑郎の対談もあれば、匿名による座談会あり、「万博におこしになった世界の皆さん!! 日本で有名な<生活館>釜ガ埼を案内します」という皮肉の利いたご案内あり、で、これら全てがアンチ万博。大阪万博を立体的に検証していこうという方にはお見落としならない1冊でしょう。
■大阪が万博で沸いていたのと同じ頃の東京は ……無刊期なので推測でしかありませんが、1970年代前半と目される東京の姿を映した『東京画報1』は、和光大学芸術学科≪東京画報≫編集室の制作、“視覚的な触覚作業集”とある副題の通り、筒函に、ビジュアル作品を未綴じリーフの格好で72葉収めた本ならざる本。この編集室に名前を連ねるのは総勢30名、しかしあいにく私の知る名前はなく、ところが作品を見れば画像に並べた通り、オリジナリティの問題 - 戦前のフォト・モンタージュの焼き直しであるとか、ヨコオさん的であるとかいう - を措けば、無名性など吹き飛ばす迫力のある作品多数。曰く、“巨大な象徴物は見あげられるもの 都市的本尊である”、曰く“東京はあなたをほうり出さない あなたはテクスチュアの一部として生かされる”、或いは“あなた わたしを必要としないのが 記念写真性である”等々、作品のひとつひとつに添えられた警句に表われる問題意識には、戦前のモダニズムに通底するものも。
パリ都市景観保護の救世主(?)アルベール・ラプラドのスケッチ画集『CROQUIS PARIS. Quartiers du Centre, les Halles, le Marais』1967年版。ドールハウスの設計図と見まがう細密かつ瀟洒なプレートが110枚。新しいものでは1960年代に描かれたスケッチも。
当時二十歳前後の若者たちが見つめていたのは、人・モノ・コトを貪欲に飲み込む都市・東京であるとともに、戦後日本がようやくその地点まで戻ることのできた戦前モダニズムの再出発地点だったのではないでしょうか。函の背に「556」のハンコが押されていることから見て、800~1,000部は制作されたのではないかと思うこの作品集、作家の無名性ゆえに軽視されているのだとすればちょっと勿体ない、確かな時代の証言です。
■大阪、東京ときて、今週3点目は正真正銘の新着品。『CROQUIS PARIS. Quartiers du Centre, les Halles, le Marais』は1967年にパリで発行されたフランスの建築家アルベール・ラプラド( Albert LAPRADE)によるスケッチ画集。特色2色使い・背布のしっかりしたカルトンに、ラプラドによる細密かつ洒脱なパリ街角のスケッチ110枚が収められています。スケッチは1960年頃までに描き溜められたもので、ラプラドとは縁の深いマレ地区を含んでいます。ラプラドは、掻爬的撤去=建造物のファサードを残し内部だけを取り壊す手法で、歴史的街区の保護を打ち出した建築家だとか。20世紀初頭、最も輝かしい時代の景観を残すことのできたパリに対し、20世紀中後期、世界を代表する都市であっただろう東京はといえば…… すでに見渡す限りの焼け野原。パリの年間観光客数約1,500万人、対する東京はその三分の一。『東京画報1』の頃のTokyo - 例えば中銀タワービル竣工は1972年 - をラプラドに倣って保護していたなら、Tokyoにもオリンピック招致とは別の食いつなぎ方があったんじゃあないかと。 6億円踏み倒しなんてことにならなかったことだけは確か。 来週は月曜日に「中央市会大市」、金曜日にはいつもの市場がありまして新着品はどうなりますことやらまた金曜日深夜から土曜日未明にご案内申し上げます。
1936~1937年、伊藤銀行重役・伊藤銃次郎、伊藤充子夫妻の欧米大旅行の記録『欧米の思出』。画像上段の「上巻」は門司出発から欧州旅行の記録。画像下段「下巻」はクイーン・メリー号の搭乗記録の貼り込みから始まるアメリカ編。ともに紙片貼込多数で旅程をたどることができる。
■片片たる紙に記された足跡を、旅程に沿って並べた貼込帖 - そんなものはたくさん残されているだろうと思うとこれが間違い。戦前の外遊の記録の多くは、帰国後の餞別返しの・おみやげの・そのかわりに・わざわざこしらえた・配り本に(ああややこしい。つまりは饅頭本の一種のようなもので)たくさん残されていて、中には片片たる紙まで複製して貼ったり綴じたりした本まであるのだから、その元となった記録は …… 本と同じくらいたくさんあったはずのそうした記録は一体どこで眠りを貪っているものか、市場に出てくることは意外に少ない、という印象があります。布仕立て『欧米の思出』と題箋を貼られた帙から姿を現した折丁仕立ての2冊は、配り本といった加工品の一歩手前にある1936年=昭和11年のヨーロッパ・アメリカ旅行の記録でした。この記録、但しご本人の肉声の類は一切なく、スクラップ・ブック兼サイン帖による旅の備忘録、とでもいいましょうか、ホテル・レストランのカードやレシート、各種チケットを旅程に沿って貼込むと同時に、各地で出会い交流した日本人・外国人の署名を集めたものです。旅を記録したのは伊藤銃次郎。名古屋の伊藤銀行の重役で、相良頼綱子爵の血をひく妻・充子との同行二人の旅はこの年の4月、門司からスタートします。本人の肉声なき記録から浮かび上がってくる旅は - 日本郵船・照国丸の一等客室に荷を解いて、香港、シンガポールを経てマルセイユで欧州上陸、パリで日本大使館員に迎えられ、ドーバー海峡を渡ってロンドンでは大原総一郎など日本人との社交に努め、鯛鍋なんぞもつつきながらしばし滞在。スコットランドにも足を延ばしてゴルフを楽しみ、シェークスピア劇を観劇、再びロンドンに戻ると「クイーン・メリー号」に乗船してアメリカへ。船上では副島直正よりちょっとばかり説教臭い献辞を賜り、競馬を楽しみ、ニューヨークでオーチス・エレベーターの重役と会い歓待を受け、名古屋製陶紐育支店の関係者ら「日本人倶楽部」は小宴を設け、ボストンを経てハリウッドへまで足を延ばし、嘉納正治とはスタンフォード・ゴルフコースに出て、日本郵船・龍田丸で帰路に着き、1937年6月帰国 - といった旅程と足跡が肉声なくとも刻々日を追ってたどることができるという次第。
『文具界』が一冊入荷、大正11年1月1日・お正月号。画像右・表紙は「文具界」の文字を除き罫内は全て広告。画像中央は切り取って店頭広告に使えるというサンエスの広告。左はデザインの完成度の高い中山太陽堂・プラトン社製品広告。
本人の記述・感想ではなく徹底して署名なりメッセージなり相手に書かせるという姿勢を貫いた結果、何より、2冊に記された多くの人名と体験の向こうから、外遊というものが一種のサロンであり将来的な投資でもあっただろうことが、よりはっきりと透けて見えてくるのでした。伊藤銃次郎が外遊を終えた4年後の1941年、伊藤銀行は名古屋銀行・愛知銀行と合併、「東海銀行」を新たに設立し、銃次郎は取締役に就任しています。
■表紙の記載によれば「六千部発送」、その割にはなかなかまとまったものにお目にかかれない文具・事務用品専門誌『文具界』が一冊入荷、大正11年1月1日・お正月号です。表紙・裏表紙とも赤・青・金の3色刷の賑々しさ、しかも表紙の「文具界」のタイトル僅かなスペースと罫外を除いて全て広告で埋められています。中面もごく僅かな記事を除けばほとんどが広告で、セーラー万年筆、フエキ糊(但し瓶入り)、丸善インキといったお馴染みから、何故か美津濃の運動用品、プラトンインキ土瓶入(どびん!)、水晶万年筆やガラス万年筆といった、一体どんなのだかよく分からないけれど紙面で見る限りは魅惑的な商品の数々が出てまいります。お正月らしく中面にもカラー4ページがあり、そのうち1ページはこの年、雑誌『女性』を創刊することになる中山太陽堂の「プラトン万年筆 プラトンシャープ鉛筆」でさすがに繊細かつ洗練されたデザイン。1ページは「サンエス インキ 万年筆」で「切り取つて貴店のウヰンドウにお出し下さい」とお勧めするアイデア勝負、デザインもなかなか大胆な表現派風です。デザインやネーミングによる差別化戦略が早い時期から導入された商品といえば、先ずは化粧品が頭に浮かぶのですが、購買層が男性中心の商品でこれにあたるのは文房具なのではないか - ということにたったいま気がつきました。中山太陽堂のクラブ化粧品とプラトン・ブランドの文具も、こう考えると腑に落ちるというものです。今週はこの他、『欧米の思出』にくっついて来たガイドブック・洋書約10冊、別に建築装飾に関する洋古書7点、外国絵葉書が1袋、長田秋濤『洋行奇談 新赤毛布』(明治35年・初版)などが新入荷、『ニューヨーク・タイムズ・ウィークリー』は全冊入替済みとなりました。また、日本語版の『ソビエトグラフ』『今日のソ連邦』『中国画報』は値付け次第店頭にお出しする予定です。