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22/06/10 チャップリン!!! コティ!? 壽屋ことサントリー!

■先ずはお伝えしておくべきお知らせから。来週地方出張の関係で店の営業は6月14日(火)の12時~17時のみとなります。19日からの週はまた通常の火・木・土曜日のそれぞれ12時~19時の営業に戻ります。ご不便をおかけいたしますが、ご容赦下さい。そして来週のご来店の際には、営業日にご注意いただければ幸甚に存じます。何卒よろしくお願い申し上げます。

入口平台の展示を変更しました。変化朝顔をモチーフとした明治~大正時代の木版画で初夏の装いに。他にも在庫がありますのでご覧になりたい方はお声をおかけ下さい。

■市場でのこと。入札用の封筒には出品物のタイトルとして「小澤征爾写真」とあり、確かに署名入りの小澤征爾の写真がクリアボックスに入っているので、まあ自分の店とは関係ない筋なんだろうなあと思いながら、しかしエフェメラなので中身を確認することにして箱を開いてみたらびっくり! だった2点が今週最初の画像。
入札用の封筒には、「小澤征爾写真」と書くより「チャールズ・チャップリン 署名入り写真」と書いた方が入札しようという業者は増えるだろうし、増えれば自ずと落札価格はより高くなるだろうと思うのに、こういう手抜きというか雑なというか投げやりなというのか、いずれにしても考えることや調べることにほとんど興味のない古本屋さんたちの仕事がもたらす見落としの部分が、小店のような後発でアテにできるお客さんももたず結局いつもお金なんて全然ない古本屋を生き延びさせてくれてるんですよね的な感慨にふけるようになったらもう店仕舞いのことを考えるべきなんだよなあと思うことしきりの昨今 (ここまで読んだあなた! 偉い!!!)。
チャップリンの署名入りブロマイドが入荷いたしました。
ブルーインクの万年筆で書かれた署名にはやや擦れが認められますが一息で書いたような勢いがあり、また、他のサインと比べて筆跡にも全く問題なく、自筆と判断。氏名の上の2文字は辛うじて「Yours sincerely」のように読めます。

写真のサイズは24×16cmとブロマイドとしては大判
画像でご覧の通りまだ年若い頃の写真で、『チャップリン自伝』に載っている写真と対照したところ、「ミルドレット・ハリスと新婚時代の私」の写真と酷似していることが分かります。ハリスとの結婚生活は短く、1918年から1920年まで。従ってこの署名入りブロマイドも1920年前後のものとみられます。
先日、NHKの「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「ヒトラーvsチャップリン 終わりなき闘い」をみました。「映画史の中で最も重要な人物のひとりと考えられている」。Wikipediaに書かれたこの1行たどりつくまでには、チャップリンの信念に基づく数々の闘いがあったことが描かれていて圧巻でした。見直しました。単なる喜劇王でくくれるような人ではありません。
20世紀映画史の重要人物については、かつてエイゼンシュテインの衣笠貞之助宛てメッセージを扱ったことがありますが、正面から臨めば厳しい闘いになっていたと思われる今回物件、入手が叶ったのはひとえに封筒に「小澤征爾写真」と書かれていたお陰ではないかと思います。有難う小澤さん。

チャップリンの写真に並べた紳士の写真もまた、同じ「小澤征爾写真」のクリアボックスに収められていたもので、香水で有名なコティ社の創業者フランソワ・コティの署名入りの写真。1933年9月13日の日付入りですが、この年、コティは上院議員選挙で当選したものの、直後に選挙違反で失格に。また、離婚がらみの紛争を抱えるなどゴタゴタが続いていた挙句、この翌年には肺炎で亡くなります。チャップリンより15年先に生まれたコティは右翼、反ユダヤ、親ファシズムとチャップリンとはおよそ対照的な人物だったようで、右も左も時代も分野も何の脈絡もなくいっしょくたにして市場に任せられてしまうというのも古本屋の仕事の面白さではありますが。
ちなみに、同じ口では他にアルフレッド・コルトーのメッセージ入りの名刺も。
もうひとつちなみに言い添えておくと、誰も気づかないのではないかと思っていたこの一口、落札は中札でした。どんなにヒントが少ないものでも、下札で軽々とは落とさせてくれないのもまた市場ならではのことであると、同業者への信頼をこめて云っておきたいと思います。

■あのラリックのボトルで有名なコティの創業者が政治的活動に積極的で、なおかつファシズムを支持していたなんてことは、今回偶さか上の写真を入手して調べて初めて知ったことですが、こちらもまた、いまから半日ほど前に政治がらみで刑事告発された企業にかかわる新着品。
サントリーさんがまだ壽屋と云っていた時代、戦争が終わってようやく復刊した酒販店向けPR誌『壽屋商報 発展』の復刊第1号から19号までの揃い発行年度でいうと1953年から1956年(昭和28年から31年)の発行分です。
酒販店をターゲットとしたPR誌だけあって、小売店へのノウハウ提供や小売店関係者を巻き込んだ企画が多いのが特徴。「これからの店員教育」「御意見拝聴」や拡販をめぐる座談会など、店舗関係者からの意見・情報の吸い上げが随所にみられ、特に「ここにこの店」と題し各地の繁盛店の店頭写真を店長・店員のコメントとともに商会するグラビア特集は時代を感じさせて面白い記事になっています。毎号著名人が登場する巻頭グラビア「愛飲家スナップ」(力道山も!)「酒食料品店の主婦・婦人店主は語る」(座談会)、「店員日記」入選作発表、トリスフォトコンテスト連載小説「愛の飾窓」(!)、店づくり・改造指南(文化住宅地の店舗改造の実例、スタンドバーのデザイン、川喜多煉七郎執筆記事等)、東京のバーブーム等流行記事など。
後のサントリーに見られる文化的なアプローチはまだ表立っておらず、あくまで実利を追求する内容ではあるものの、情報量としてはかなりのもの。また、挟み込みの販促用のチラシ1枚や、各号裏表紙のサントリーの広告には、サントリーらしいセンスがよく表れいています。
さすがはサントリーというべきPR誌、この年代のものがまとまって出てくるのは稀。

■投資話しなどまでもちだされて日本ただいま崖っぷち …… という状況をうまく言葉にしている人たちを下記に。
進め一億火の車だ!
21世紀・新しい敗戦に向けた標語は「こちら」から。
新しい敗戦へのアプローチについては「こちら」から。
で。いま世界は日本を注視しているそうでその内容というのが「こちら」。
まさしく「先進」国 としての栄光というべきか……
 

22/05/27 慰問書簡にみる? 日露戦争・太平洋戦争

■21世紀はSDGsを軸に、世界は新しいパラダイムへと進んでいくのだろうとばかり考えていたのが大間違い。独裁者やら帝国主義やら、歴史の亡霊を呼び出そうと目論む数人の御仁によって、世界はいま、するすると時間を巻き戻されつつあるようです。
ウクライナへのロシアによる軍事進攻は、戦地において兵隊同士で戦う従来の戦争が、市民の生活の場へととめどなくこぼれ出した第二次世界大戦以降のあらゆる戦争の続きを見せつけられているようで一層に滅入ります。
ロシア国内での世論はいま一体どうなっているのか分かりませんが、しかし、勇ましく前進し自国の「強さ」を信じる人たちのなかには - あのサッカー・ワールドカップやオリンピックで自国チームに熱狂する様子などに似て - 多少なりとも高揚感があるのではないかと推察します。
戦争に加担しているなどといった意識のないまま、ちょっとした高揚感を楽しんでいたのではないか… そんな推察を裏付けるような太平洋戦争突入後のごく早い時期のものとみられる慰問書簡が今週の1点目。中支に派遣された横井部隊に所属する兄に宛て、弟がしたためたもので、少々ユニークと云うのか破格というのか変わった代物です。
珍しいのは単純に文章を綴るのではなく挿絵や新聞切り抜き、関係者の写真と挿絵をコラージュするなど、視覚的な要素がふんだんに盛り込まれていること、そして、果たして何メートルになるのか計るのが面倒なくらいの長い巻物仕立ててあること。中支の部隊に届いていたことが分かる書き込みがあることから、これでもちゃんと届いていた(そして兵士とともに日本に戻ってこられたもの)と見られます。
この慰問文では、挿絵が言葉の代わりになっていて、例えば冒頭は
「御兄様 御機嫌如何です (蛇の絵) い間ご苦労様でございます (日本列島の絵) は今年天候が良いので増産々々で張り切って居ります (米俵 かぼちゃ とうきび スイカなどの絵)」とあり、蛇の絵は「長い」日本列島は文字通り「日本」と読ませます。盆踊りや大文字といった日本の夏の風物詩を描いた挿絵もあり、なかなか達者。

やがて親しい人たちの近況へと移ると、今度は当事者の写真と絵とを組み合わせたコラージュが現れます。
「叔父さんも御年ににず非常に元気で (畑の絵の真ん中に立つスーツ姿の男性の写真) この通りです」といた調子。
「ジャバの治橋開通」の新聞記事の貼り込みには矢印がひかれ、「これが御兄さんらしいと云ふので大さわぎしましたが如何でしょう」と書かれています。
この他、セーラー服にモンペ姿の女学生が日の丸を振っていたり、戦闘服で飛行機に乗り込んだまだ幼い少年など、登場人物も多彩。
そして、「敵機がいくら弾を落としてもヘッチャラです。僕の組は訓練がちゃんとできて居ますから」「大いに英米のビョロヒョロ兵をやっつけて下さい」と、文末に至るも意気盛ん。
中支での侵攻の実態やその後の歴史を知る身からすると、いささか不謹慎と思われるような陽気さ、楽しさに満ちていて、またしても何だかやるせない気持ちを味わうことになりましたが、それは多分、あの時代の空気を紙の上に係留するのに成功しているからなのだろうと思います。
意を決して長さも確認してみました。全長425cm。大作でもあります。

その後の戦局を考えると、牧歌的と云いたくなるような1点目と同様、或いはそれ以上に市民の生活と戦地とが遠く隔たっていたことを体現しているかのような日露戦争当時の書簡箋が今週の2点目。
明治時代の引き札によく使われた日本髪・キモノ姿のこの女性像の趣味の悪さ(大正時代あたりまで団扇絵などでも使われたこの手の絵柄、実は小店店主、大の苦手)に、これは仕入れるべき商品なのかどうか大いに悩んだものの、それだけでも珍しいポップアップ書簡箋なんてものがあって、しかもそれが完全なかたちで残っているというので入札したものです。
画像手前の書簡箋は風を開けると、旭日旗や桜の花の模様、「大勝利」の戻が描かれた提灯が立ち上がる仕掛け。便箋に書かれたスミ文字は、韓国京城の兵隊さんが、「大日本帝国愛知県」の「御父上様母上様三郎殿五郎殿」に宛てて書いた墨書直筆なのですが、あまりに達筆で(この辺りも上の慰問文とは大きな違いです)読めません。が、どうやら近況報告のようです。

ポップアップの提灯以外の図版は全て石版刷。画像ではお伝えしきれないと思いますが、女性の髪の一本一本まで細かに描かれており、日の丸と旭日旗とを組み合わせた小さな簪までさしているのがミソ。
また、よく見ると、「意匠登録出願中戦捷紀念萬歳書箋」と印刷されており、当時尖端の情報ツールだったといえそうです。
もう1点、、グリーンの薄紙でできたアーチの上に日章旗と旭日旗をあしらったものもポッップアップの仕掛けもの。おそらく同時代、こちらも石版刷ですが未使用です。
同様の女人像と国旗、戦地を思わせるモチーフを組み合わせた絵入りの軍事郵便(書簡箋)2点も入荷しています。

■国立国会図書館でも美術館横断検索でもひっかからなかった雑誌『東京映画小劇場』の第4輯から第9輯(1930~1931年)が入荷しました。
マイナーな雑誌ですが、実験的映画の専門上映館「映画小劇場」の実現を目指す集団が主宰した映画の総合雑誌。評論あり、技術論あり、随想あり、翻訳ありとなかか多彩で、執筆者には板垣鷹穂、堀野正雄、飯島正、八田元夫、高田博厚の名前も。第8輯は「ソヴエート映画号」で、他の号にも当時のソ連映画の色濃い影響がみてとれます。
また、トーキーへの移行期にあたり、発声映画への目配りも。
表紙だけみても、映画小劇場運動に関わる人たちの新しい精神がくみ取れるのではないかと思います。

今週はこの他、書籍の図版を中心とした銅版の版下、書籍のタイトルを鋳込んだ活版活字が靴箱程度のサイズで1箱入荷いたします。

■イデオロギーと文化芸術は全くの別もの。ですが、例えばある一連の公演にべったり政治が貼りついている場合はどう考えれば良いのか。難しい問題です。で、この場合は?
http://www.russian-festival.net/festival.html
先日はミャンマーの国軍兵士を防衛省が研修に迎えたり。
日本の歯車もまた、巻き戻されていきそうな……

22/05/21 1960年代はじめ 日米の映画界・映像界をめぐる資料

■先ずは来週のスケジュールのお知らせです。5月24日(火)は洋書会大市のため休業させていただきます。来週店の営業は26日(木)と28日(土)のそれぞれ12時より19時までとなります。ご不便をおかけいたしますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

今週月曜日は雑事に追われて更新できず。久々の更新となりました。
映画の都・ハリウッドを代表する映画館「シネラマ・ドーム」=「シネラマ・シアター」の開場と、映画「おかしなおかしなおかしな世界」のワールドプレミアとを兼ねたオープニング記念イヴェントの記録写真。
1963年に開催されたこのイヴェントに、日本から招かれた映画評論家・荻昌弘かその関係者の旧蔵品とみられます。
「シネラマ」とは、1952年アメリカ発祥のワイド・スクリーン映画のひとつで、映写機3台を利用する方式。当初は技術的な問題から難点が目立ったようですが1963年までには70mmフィルムの登場などにより改善がみられたといいます。
入荷した写真は全て6切サイズで、①ドーム型が特徴的な「シネラマ・シアター」のオープニングー・イヴェント当日の外観写真2点、②テープカット2点、③オープニングパーティ11点(監督挨拶、俳優・女優など含む)、④荻昌弘によるインタビューのスチール4点、⑤「おかしなおかしなおかしな世界」の撮影現場スチール写真7点
この内の⑤には、荻昌弘の自筆と思われる映画短評1枚が付いている他、専用のレターヘッドを使った映画のプレスリリース2枚日本のユナイト社から荻に宛てたメッセージ1枚、封筒2点がついています。
シネラマ専用上映館として開業した「シネラマ・シアター」=「シネラマ・ドーム」はシネラマ方式が定着しなかったものの、映画の都・ハリウッドの聖地のひとつに数えられた名映画館になりました。コロナのあおりで2021年にはいったんは閉場が伝えられたものの、今年になって一転、営業再開の見通しとのニュースが伝わっています。
経済至上主義の一方で、こういう時にはどこからかリカヴァーする力が働くアメリカという国を、いつも不思議に、そして少し羨ましく思います。
 

■「シネラマ・シアター」開場の翌年・1964年の日本では、映像とその周辺で表現を模索する人たちが離合集散の歴史を重ねていたようで、その過程で生まれた冊子が今週の新着品の2つ目。
「1950年代後半から1960年代の初頭にかけて、当時のドキュメンタリー、教育映画の業界に小さくない影響力を持」っていた(Wikipedia)日本記録映画作家協会が分裂、このうちの松本俊夫をはじめとする改革派がつくったのが「映像芸術の会」(神戸映画資料館 筒井武文監督ロング・インタビューより)。
画像中右端の『映像芸術の会 研究資料 第1号』は1964年7月の発行で、黒木和雄、土本典昭などの監督した作品のシナリオと、松本俊夫と滝沢林三の批評を掲載。『松本俊夫著作集成1』所収の「人間性の回復-『去年マリエンバートで』を見て」は当誌が初出。
『記録と映像』を会報とする「記録と映像の会」は「映像芸術の会」のもとで、上映活動を企画する委員会として設けられたもので、今回入荷した『記録と映像 』の1号から3号まで(1964年5月~7月発行)巻頭には松本俊夫と野田真吉による「連載<対談>戦後ドキュメンタリー変遷史」が掲載されています。
『記録と映像』では、この他、池田龍雄、真鍋博、久里洋二というあたりが参加しているのも面白いところ。
1964年のこうした動きとその前後については、すでに下記の該博な研究があり、ご興味をお持ちの方は是非ご参照下さい。
阪本裕文「前衛記録映画論の戦後的意味-1970 年までの松本俊夫の諸活動をもとに」

今週はこの他、児童画がまとまって到着、明治中期以降大正頃までの古写真1箱が入荷。来週にはスクラップ帖だけをまとめた棚をつくりたいなつくれるかなつくれるといいな。といった具合でご来店をお待ちいたしております。


 

 

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