■オリンピック開催期間中を通じて長らく休業しておりました店も、8月10日(火)に営業を再開いたします。
ですが、東京のコロナ感染者数は増大の一途をたどっており、直近まで50歳代にカウントされていた店主のワクチン接種は8月14日にやっと1回目という諸般の状況から、当面の間、完全予約制とさせていただきます。
10日以降、14日(土)を除く毎週火木土の12時〜19時の間で、ご来店のご予定について予めご連絡下さい。
ご連絡はFacebookで 「古書 日月堂」(古書と日月堂の間は半角あけ)宛てのDM、またはInstagramの「日月堂」よりこちらもDMで。直前でもご確認・ご返信が可能です。この他当日であれば店の固定電話 03-3400-0327 でも 数日前まででしたHPからのメールでもOK。
ご面倒をおかけいたしますが、ご協力のほど、何卒よろしくお願いいたします。
8月14日ワクチン接種のためは大事をとって休ませていただきます。どうか悪しからず、ご承知おきいただければ幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
■さて、新着品のお知らせ。1点目は久しぶりのペリアンです。ペリアンが日本で開催した展覧会の図録、といっても戦後の方ですが。
『巴里1955年 芸術の綜合への提案 ル・コルビュジエ レジェ ペリアン 3人展』の図録で別紙「出品目録」付き。新着品としてのご紹介は3度目か4度目になるかと思いますが、最近は市場にもあまり出てこなくなっています。また、これまで入荷した際にはすぐに買い手がついてきたため、店頭でご覧いただく機会がほとんどなく、現物を目にした方は少ないかも知れません。
建築家のル・コルビュジエ、画家のフェルナン・レジェについてはよく知られた名前だと思いますが、シャルロット・ペリアンはご存じない方も多いのかも知れません。この3名の中で最もマイナーであろうと思われるペリアンこそが、この図録の人気のカギとなっています。
ペリアンは1903年、パリ生まれの建築家・デザイナー。20代の若さで自らのアトリエを開き、家具のデザインで建築家ル・コルビュジエに認められると彼のアトリエに入所、コルビュジエの協働者としてデザインに従事します。1940年には商工省の招きに応じ輸出工芸指導の名目で来日、その成果を展覧会『選択・伝統・創造』で発表した後、太平洋戦争のため日本を離れたという日本との因縁も浅からぬ人物です。
1955年、ペリアンにとっては14年ぶり・日本での2度目の展覧会の開催となった「3人展」は、展示品の三分の二をペリアンの家具が占め、協働者のコルビュジエの絵画・タビストリー、ピカソなどと並び古くから親しい交流のあったフェルナン・レジェのタピストリーと陶製レリーフ、ステンドグラスなど二十余点とともに展示されました。
2011年から2012年にかけて日本の三カ所の美術館で開催された「シャルロット・ペリアンと日本」展の公式カタログによれば、「3人展」では“金属やプラスチックといった大量に生産される材料や新技術だけに頼るのではなく、伝統的な手工業で使用されてきたような、生地を生かした天然の木材も取り入れながら考案した”家具を制作したとあり、日本各地の地方の職人を訪ね、その技術に触発されたという戦前日本での体験がベースにあることを思わせます。
日本で2回に及んだ展覧会はいずれも百貨店の高島屋で開催されました。世田谷美術館で開催され「暮らしと美術と髙島屋」展の図録には、明治から平成まで、高島屋美術部が手掛けた膨大な展覧会のなかから選抜された「美術部展覧会100選」と「文化催事三十選」がリスト化されていて、「選択・伝統・創造」は「美術展覧会百選」に、「3人展」は「文化催事三十選」に選ばれています。
パリで「シャルロット・ペリアン大回顧展」(装飾美術館)が開催されたのは1985年。ロンドンデザインミュージアムで「シャルロット・ペリアン モダニストパイオニア展」が開催されたのはようやく1996年になってのこと。時代背景を考えると、“当時これほど女性が活躍することへの困難が大きかったことは想像に難くない。家具のいくつかもル・コルビュジエらとの共同名義で発表されながら、ペリアンの仕事だと後年に明かされたものもある。”(TOKYO ART BEAT;
https://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2019/11/charlotte-perriand-inventing-a-new-world.html)
- ペリアンというひとりの女性の仕事を正面から評価し、ペリアンの名前のもとでその仕事を評価した一番最初の国が日本だった……?
ペリアンの展覧会に関する印刷物に格段の人気が集まるのには、この辺りの理由があるのかも知れません。
■わら半紙に孔版刷という、お世辞にも立派とは云い難いこの2点。何かヒントはないものかと、検索してもケンサクしても、背景について一歩踏み込んで説明することができないという、姿に似合わず手強い相手でした。こうした時こそ情報公開。というわけで早速簡単に内容を。
1965年頃の『フォーゲラーライン・コール』の入会勧誘チラシ。後に日本音楽協会事務局長やメーデー合唱団の指揮者を務める印牧真一郎と云う人が指揮棒を振る合唱団で、当時50名の会員が白金台幼稚園に集まって活動していた合唱団です。
特筆すべきは「私たちのレパートリー」。印牧氏との関係によるものか、林光作品の委嘱初演が1960年「混声合唱とコンボの爲のラプソディ」、62年「乞食の歌」(台本・安部公房、演出・観世栄夫!)、63年「ヴァカンス-あるいは時の中の死」、さらに1965年の演奏会では「委嘱新作 林光、おきはるを、間宮芳生、広瀬量平氏らを検討中)」としています。
他のレパートリーもバルトーク、コダーイ、ショスタコーヴィチと少々ひねりが。
なかなかにユニークな合唱団だったのではないかと思われるので、どこかに記録が残っているだろうと思っていたのが甘かった。どうスタートし、どんな人たちが参加し、どうした実績があったのか…林光に間宮芳生、そして安部公房までからんでくるあたり、気になりつつもここから先は一歩も進めず。残念。
■こちらは学校や職場で使われた幻灯教材のひとつ、『スライド解説書 ふみにじられしもの ケーテ・コルヴィッツ画集』で幻灯画に付随するテキスト(解説文)。解説文は近年再評価が進んだという新海覚雄によるものです。製作はキヌタ・スライド。裏表紙の「キヌタ・スライドの幻灯フィルム」一覧によれば、キヌタプロダクション第一回作品の幻灯化「母なれば女なれば 増補決定版」が入っていることで、キヌタプロダクションの関連会社であるのは間違いなさそうなのですが、それ以外、一切不明。キヌタ・スライドには、一体どういう人たちが関わっていたのか、その後の記録映画、アニメーション、労働争議などとつながっていくことが予想されるだけに、分からないのが悔やまれます。無念。
■選手名ではなく国名をメダルの色とともに絶叫し続けた実況中継からようやく解放されます(ニュースでオンエアされるのはそんな場面ばかりでした)。アスリートとかメダリストとか呼ばれる人たちの自分とその関係者という狭い範囲しかみていないコメントからも解放されます。
政府と都は重症以外、入院させずとも良しと病院に通達、さすがに前言撤回したものの、本音も露わとなったところでオリンピックも終幕間近、職場接種の再開を云うものの、この間に拡大した学校・職場での感染は拡大の一途……きりがないので今週の斜め読みから。先生渾身の…
https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/celebrity/%EF%BD%8E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E5%9B%BA%E3%81%BE%E3%82%89%E3%81%9B%E3%81%9F-%E6%80%92%E3%82%8A%E3%81%AE%E7%99%BA%E8%A8%80-%E5%80%89%E6%8C%81%E5%85%88%E7%94%9F-%E3%81%8C%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%89%EF%BC%91%E4%BD%8D/ar-AAMSV7J?ocid=ob-fb-jajp-781&fbclid=IwAR1rehUfcgotEs59AeLKxqbuTyu-oYxs4t6BPyVGXiZPzwZWjPP0SmpHlgk
云ったところで詮ないこと、せめて笑って〆たいとおっしゃるむきにはこちら↓をどうぞ。
https://mobile.twitter.com/poverty_liberty/status/1422475971182022664?s=04&fbclid=IwAR1oyxOwXbQYCBjYaOFgbJEhGI5XYizt9OJC8-Q0qPA04spLCVoEAXBlUYk