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11/07/30 戦中戦後日米史の断片 カール・秋谷一郎の書簡16通 / 若くして逝った商業美術界の立役者・濱田増治を追悼する私家版


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1968年1月31消印の手紙の封筒表側には、松本正雄の字、“赤鉛筆で「二重国籍者」「NY文芸」のこと”と書かれている

■2011年7月が年内、あるいは今後数年の景況を占うものだと仮定すると、暑さがいっぺんに吹っ飛ぶばかりか背筋に冷たいものが流れる7月最終日。 バルビエ、サティ&マルタンのポショワールもの、内容は措くとして藤田嗣治直筆書簡など、小店には珍しく何だか華やかな品物が続きました。ポツポツとお問い合わせはいただくものの動く気配はさらさらなく、やはり小店のウツワではなかったかああぁぁぁ。  と、少々慌てた結果が今週の2点となりました。それにしてもどうしてこうも極端から極端へと走るのか、もう少しバランスってものがとれないものですかねぇ、という今週は地味でシブいラインナップ。ですが私も古本屋の端くれ、こうした一見地味な資料に光をあてることも大切な仕事のひとつに違いございません。
ニューヨークから東京へ。1950年から1968年まで。カール・アキヤこと秋谷一郎から松本正雄に宛てて。どれを開いても几帳面な字で細かくびっしり書かれたエアメールが16通。カール・秋谷一郎は1909年サンフランシスコ生まれの日系二世で、1915年・6歳の時に来日し、中学部から関西学院で学ぶなかで受洗してキリスト教に入信、同学院専門部在学中の1931年に満洲事変が勃発すると日本に失望しアメリカに帰国、帰米2世として太平洋戦争以降のアメリカを生きた人です。帰米以来、日系人をはじめマイノリティへの支援活動を続けたのが認められて、1987年にはマーチン・ルーサー・キング賞を受賞しています。一方、松本正雄は英米文学者で戦前の平凡社で編集にたずさわり、戦後は英米文学者として翻訳や評論で活躍する一方、日本民主主義文化連盟の創設などにも関わった左翼系リベラリスト。今回落手した書簡中、最も早い「1950.8.28」付の手紙の冒頭で、秋谷はまだ会ったこともない松本から届いた手紙が「何だか旧友からのなつかしい手紙」のように感じられたと書き、おそらくはいま私の手元にある16通の書簡だけではなかったであろう、その後の濃やかな交流を予告しています。書簡はいずれも丁寧に開封され、大切に保管されていたもののようで、いずれも状態は非常に良好。内容は秋谷の米国での活動・生活、秋谷と松本がアメリカと日本でそれぞれ関わっていた雑誌や新聞の記事などに関するものが多いようですが、これだけの文字量だけに、内容を把握するにはまだ少しお時間をいただかねばならなりません。


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図版ページには珍しい濱田増治の美術作品の他、美術学校当時の写真や編集作業中の様子を写したものなども

ただすでにひとつ、気になることもありまして。後に“生涯にただ1冊の自伝的大著を著した” という(こちら。引用申し訳ございません。何卒ご海容下さいますよう…)『二重国籍者』の著者である「あべ」という名前が一通目の手紙から現れていること、最も新しい1968年1月31日付の書簡に記された、秋谷がその『二重国籍者』を読んだ時の率直な感想や指摘 - 「サンタアニタ収容所で起きているので私自身の経験とも重なって」「その中には、その人だとはっきりわかる程の描写がされているので、読みながらイライラした感情をゆさぶられるのをどうすることもでなかった」等々 - があることなどから、カール・秋谷一郎と『二重国籍者』の著者あべよしおとの関係、或いは戦時中の日系人収容所に関する記述には何らかの新しい事実が隠れていないか …… おっと、これは古本屋のスケベ心。資料に対しては雑念を排し、常に謙虚に向かわないといけません。はい。
■よく焼けた謹呈箋が時代を感じさせる『八房の梅』は昭和16年、編集人兼発行人を濱田絹子に刊行された非売品=私家版の上製本。濱田絹子は日本で「商業美術」という言葉を初めて使い始めた草創期グラフィックデザイナーの一人・濱田増治の夫人で、つまりこの『八房の梅』は濱田増治の追悼のために刊行された配り本、俗に“饅頭本”と呼ばれるもの。濱田増治は雑誌『広告界』や雑誌・新聞広告からポスター、パッケージ・デザイン、ウィンドーディスプレイまで、商業美術を分野別24巻にまとめた『現代商業美術全集』など、大正から昭和初期にかけてこのテの雑誌・出版物では実によく見る名前だったので、この本によって昭和13年に47歳の若さで亡くなっているのにはちょっと驚きました。巻頭にはアート紙別丁で写真を所収。画像にとったのは大正5年太平洋画会第二部に出品した濱田の作品2点で、「我が国に於ける抽象絵画の先駆」という解説が付されています。追悼あるいは追想の原稿を寄せたのは和田三造、金丸重嶺、清水三重三、宮尾しげを、橡内吉胤、水田健之輔、さらに、斎藤佳三、仲田定之助、戸田達雄、普門暁…等々、デザイン、芸術、文化関係を中心とした60名超の錚々たる顔ぶれ。濱田増治、47年間の短いながらしっかり太く刻まれた足跡を辿ることのできる珍しい本です。

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